漆黒の着物に羽織姿のリクオ。慣れない裾裁き。幼い頃はよく着物を着ていたが、妖怪任侠界への反目からか洋装が多くなったためだろう。
あれだけ立派な妖怪になると言っていたのに、何をどう違ってしまったのだろうか。その宣言通りに夜のリクオは見事なまでに完璧な妖怪だったのに。
物思いに耽っていると、リクオの顔が間近に有り、鴆の顔を覗き込んでいる。
「あの鴆くん、そろそろお布団敷かない?」
衝撃の発言。リクオの突然の言葉に鴆は目を見張る。
布団を敷くだって? それはもしかして、そういう事なのか?
『リクオも満更じゃない』と言った総大将の言葉を思い出す。
「やっと二人きりだね、鴆くん。ボク、ずっと待ってたんだ」
羽織を滑り落とし、帯に手をかけるリクオ。
「ボクを鴆くんのものにしてくれるよね?」
赤らめた頬。眼鏡を脇に置き、リクオが目を瞑る。うっすらと開いた唇に持ち上がった顎。それは接吻を強請る仕草に他ならない。
「リクオ良いんだな?」
って何が良いってんだ俺っ!
思わず想像してしまった展開を脳内から振り払う。
「なっ何を言い出すんだ。おまえっ、もうちょっと自分を大切にだなぁ」
いやしかし。リクオが良いって言うなら据え膳を食べない手はない。
あの細い足首を掴んで腰を穿てば、リクオの細い身体は面白いように跳ねるだろう。
違うっ、そうじゃねぇ。どうしてリクオのあられもない姿が浮かぶっていうんだ?
まさか、一服盛られているのかと鴆は総大将の姿を思い出す。
おまけに鴆の理性とは別に、脳内では勝手にリクオが痴態を繰り広げていて、静止のしようもなくなっているではないか。さすがに四つ這いになったリクオが誘うように尻を上げていて、それはおかしいだろう強制的に脳内から追い出す。
「どうしたの鴆くん、寝てなきゃだめなんでしょう? 布団ここで良いのかなぁ?」
「あっ、いや。今日は調子が良いんでな、気を使ってくれんな」
なんだ。そういう事か。
自分も一体何を誤解しているのか。
寝ていなければならないこの身を案じてのリクオの親切心を、邪な目で見てしまっていた己れを鴆は恥じる。
つまり、危うく総大将の口車に乗ってしまいそうだったのだ。げに洗脳とは恐ろしいものなのかと再確認しているとリクオが窘めるような口調で詰め寄ってくるではないか。
「ダメだよ、鴆くん。ちゃんと養生すれば長生き出来るって聞いてるんだからね」
そう言って甲斐甲斐しく世話をしようとしてくれるリクオに好感を覚えつつ、初代が可愛がるのもよく解ると頷く。
そんな可愛い存在を男の手に掛けさせようとするなんて全くひどい祖父もいたものだ。
おそらく妖と交わる事によるショック療法と、男の尊厳を傷つけられた怒りによる相乗効果を総大将は狙っているのだろう。
感情の高ぶりが人間の血を払拭させるのかもしれないと鴆は読んでいる。
いくら四分の一しか妖怪でないとは言っても、稀に妖怪の血が人の血を支配する事もあろう。
孫が可愛いと言っても、妖気の欠片も感じられない人間の姿のままでは若頭に就任すらさせられないと言ったところか。
確かに鴆とて、夜のリクオに三代目を継いで欲しいと思う。
そのためにもリクオを組み敷かねばならないのなら、意に染まない交わりもい致し方ないのかもしれない。
もし、自分がいつまでも拒否していたら他の妖怪の手によってリクオを目覚めさせられるかもしれないという不安もよぎる。
奴良組は総大将の命には絶対の忠誠心を持つ輩ばかりだ。特に牛鬼などは命令に背くとは考え難い。その他の候補として、年近いところでは、狒狒の息子もいたはずだ。
他の妖怪がリクオを組敷く。それはさながら儀式であり、自分はただ見ているだけしか出来ないのだ。
「や、ぁ…、鴆くん、助け……」
大きな瞳からポロポロと落ちる涙。こちらに向かって手を伸ばすのを顔を背けて拒絶しなければならないなんて。
それだけは勘弁だ。
「なぁ、リクオ。お前はどうだ? 同じ男に自由を奪われるのはよ」
「どうしたの? 鴆くん?」
独り言のように語り掛けたのでリクオの耳には届いていなかったらしい。
珍しいのか、屋敷中の襖を開けては調度類を確認している。見事な欄間の一枚板には繊細な百鬼夜行が掘り出されていてリクオの目は釘付けだ。
そしてリクオはさらに己れが見つけたものに目を輝かす。
「うわぁ、この離れって内風呂があるんだぁ」
縁側の先には、無駄にも露天風呂があって、部屋からはいつでも入れるようになってある。
「源泉掛け流しってやつらしいな」
ふらり火あたりに加温させているのかと思いきや、ちょうど良い温度の湯がわき出ている。
「リクオも知らなかったのか?」
言うなればここは奴良家の持ち物だ。リクオが知らないはずはないと鴆が訝しむのも無理はない。
しかし、リクオはいつもの明るい表情に影を落として俯いたのだ。
「ここは、じぃちゃんが隠居用として使ってたから」
つまり二代目が亡くなって、初代は隠居から復帰し母屋に戻らざるを得なかったという訳で、それはリクオにとって父を亡くした辛い思い出と直結する。
しかし感傷を振り払うかのようにリクオは小首を傾げて見せた。
「ねぇ、鴆くん入っても良いかな?」
眼鏡を外し、足袋を脱いでいる姿は鴆の了承を得ようという者の姿ではなかった。
「もう既に入るき満々じゃねーか」
元はといえば、鴆の方がここを間借りしているのだ。断る理由もないし、温泉など入ってなんぼのものだ。
大いに入って行けと鴆は部屋から退室しようとしたが、なんとそこでリクオに呼び止められてしまったのだ。
「鴆くんも一緒に入ろうよ」
思わず畳みの縁で躓きかける。
恐る恐る見れば、なんの邪心も無さそうな笑みを浮かべるリクオと視線が合った。
まさに餌が懐に入ってきているような状態である。これこそ千載一遇の機会と言えば良いのか?
おそらく総大将の言うようにリクオも満更ではないのだ。よって、露天風呂に入るという口実を元に、ここでリクオを食ってしまっても何ら問題は無いに違いない。
男を抱く趣味は持ち合わせてはいないが、ここで後込みしていては男が廃るというもの。
何よりも、一番盃を受けた自分がリクオの初めての相手とせずに何とするのだ。
それが命を終わらせる結果になるなら本懐ではないか。
鴆はごくりと喉が鳴るのを自覚していた……。
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