この想い、風に吹かれて大空へ 2




 時生は六年前の事件で、ある事をすっかり忘れてしまっている。
 思い出さない方が本人のためなのだろう。おそらく精神がより強くあろうとした結果なのだ。
 一燈も真実を知っていても話そうとは思わない。追及するつもりも、だ。
 時生も矛盾するところは、無意識に無視しているのか、むしろ不都合は認識しないよう脳の回路が都合よく繋がっているようにみえた。
 それで良い。
 目の前で両親を惨殺された時生が自衛した結果なのだから、諸手を挙げて受け入れよう。
 しかし一燈の時生に対する恋愛感情はそれを拒む。

 少し長めの黒髪。顔の中で存在感のある黒目がちの瞳が愛らしいイメージを与える。唯一左目の赤を除けば、誰もが振り返る程の器量だ。ふっくらとした唇に、華奢な首。なでらかな肩からのびる腕は細い。長い上着で隠しているが、ウエストも細い事が解る。

 それもそうだろう。
 時生はすっかり忘れてしまっているが、彼は紛れも無く『男』ではないのだ。
 ただ残念な事に、脳の誤解が作用してか丸みは皆無だ。胸もない(ように見える)。
 だから第一印象は少年で、むしろ女には見えなかった。
 第二次性徴が止まり、少女のまま身長だけが伸びているのか。
 時生が自分が女であると忘れているかぎり、『女』にはならないのだろう。本人も自分を男だと思っているようで言動も男そのもの。
 またハクタクも時生の誤解を助長しているようだった。

 六年前の事件で、時生が兄を倒すと誓ったあの時から、一燈の目の前から少女は姿を消した。しかし、あの時に目覚めた恋心はずっと息を潜めつつも一燈の中で生きている。
 その証拠に今の少年のような姿の時生にすら欲を感じているのだ。もし今、時生に打ち明けたなら男同士ですと拒絶される事だろう。
 だが、限界に近い感情も渦巻いている。
「一燈さんは好きな人いらっしゃるんですか?」
 食事中の何気ない言葉に一燈は物悲しさを覚える。
「親が決めた婚約者だけどな、一目惚れした」
 勝手に決められた許婚だったが、五つ年下の少女に心奪われたのだ。
「そうですか」
 少しショックを受けたような時生に脈があるのかと疑ってしまう。いや、時生は自分を男と思っているのだから単なる好奇心からだろう。
 互いが婚約者であることを時生は知らないはずだ。
 酒が遅いと様子を見に行った時生。
 ここで押し倒したりすれば、時生の精神は崩壊するかもしれない。女だと思い出すのは六年前の事件を思い出す事と同じで、忘却が逃避なのだとしたら男である事を尊重しなければなるまい。
 時生と入れ替わりでハクタクが覚束ない手つきで酒を運んでくる。
「時緒様が男である方が、後継者という点で違和感を感じませんでしょう。天魔波旬を倒すためにも」
 全てをお見通しなのだろう。ハクタクは釘を刺しにきたのだ。
「残念ですが時緒様の事はお忘れください」
 平和な時代なら時生は時緒のままで、一燈と愛を交わし次の世代を育てていただろう。

 運ばれてくる食事よりも酒に手が伸びた。こんな風に時生にも手を差し延べられれば良いのに。
 今夜は酒が過ぎているのが解る。それでいい。このまま潰れてしまえば時生に何かしでかす事もあるまい。

 例え天魔波旬を倒しても時生は志村の当主。
 一生その手を取る事はないのだ。



すみません、まだ続きます。



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