嘘つきな唇 2





 翌日には普段通りの馨がいて、僕は安堵に胸を撫で下ろす。
 いつもの笑顔はいつもと同じ優しさをまとっていて、昨日の事は見間違いだったのだと結論を出していた。
 放課後になり、その日もホスト部の営業は無かったのだが、次に合わせてのミーティングのために一同が揃う。
「で、叩かれちゃったらしくってサー。三年生でそんな気性の荒い姫がいるの?」
 ハニー先輩事、埴之塚光邦に問うが、ケーキを食べる彼は小首を傾げて大きな瞳を瞬かせている。
「さぁねぇ? どうだろうかねぇ?」
 相変わらずの口調で光邦が従兄弟の銛之塚崇に視線をやると、やはり「あぁ」とだけ答える寡黙な彼。
 そんな一同の元に、もうメイクも限界だと顔を洗いにいった馨が戻ってきて、使用前使用後のような顔を皆に見せていた。
「ねっ? すごくない? この跡をあれだけ完璧に隠したんだから才能ってヤツ?」
 特殊メイクの域だという皆の意見に、馨は口の端を痛そうにしながらも笑ってみせる。
 そんな明るい馨に環は眉を顰めていて、何か言いたそうにしていたが思い止まったように口を閉ざす。
「腫れていないから隠せたんだけどねー、今日は柑橘系の物が痛くって。おまけに歯がぐらついてる気がするから一応歯医者に行ってみる」
 出されてあったジュースに口をつける事なく帰り支度を済ませた馨に僕は手を振る。
「いってらっしゃーい」
 その言葉に皆が一斉に僕の方へと向く。
「光は行かないの?」
 代表して問うたのはハルヒだった。彼女も僕が馨と一緒に行動しない事に驚きを隠せなかったようだ。
「そんな子供じゃあるまいし」
 そう斜に構えてみても、本当は一緒についていきたかったのだ。だが双子の感覚が警鐘を鳴らす。
 いつもと同じと思いたいのに馨が馨でないような言い表わしがたい感覚。
 それに、何よりも馨が一人にしてほしそうだったのだ。意を汲んで、扉を出ていく馨の背を見送って……。
「それにしても馨に振られたからって暴力なんてヒドくない?」
 さりげなく話題を変えるが、馨に振られたのはどこのお嬢様だろうかと疑問は絶えない。手を挙げるだなんて、この桜蘭の生徒としては相応しくない行動。大抵のお嬢様は殿方に歯向かうようには躾けられていないというのに。
 腹が立つが当の馨を差し置いてどうこう出来るはずもなく……。
「光は余裕だな」
 馨が告白された事に焦りはないのかと聞く環に僕は呆れたように肩を竦める。
「その余裕って何? 馨が女の子に告白されるのって当たり前じゃん。見た目良し家柄良し性格も良ければ成績だってね。次男だから入り婿にって話も多いんだよねー。でも馨は付き合わないよ。だって釣り合わないじゃん?」
 ちょっとやそこらのお嬢様でも許さないね。そう言葉にして、昨日の馨を思い出す。
『……キスしようとしたら、噛まれちゃってこの有様』
 あの馨がキスしようとするぐらいだから結構カワイイのだろう。
 しかし馨がそんな行動に出るのかと疑問に思わないはずもなく、心に出来た蟠りがとれないでいた。
「そんな問題じゃないぞ」
 環が苛立ちを誤魔化すかのように目の前のティーカップの中身を飲み干し、
「だがまぁ馨の問題だしな」
 そう呟いてこちらを伺う。
 歯がぐらつくと感じるほどの暴力を女性がふるえるはずがないのに。そう言いたげな環の視線の意味を僕は汲み取る事が出来ず、馨に告白した三年生の女子は誰だろうと記憶を辿っていた。
 一度ぐらいはホスト部に顔を出しているかもしれない。しかし客のどうでも良いやつの顔なんて鏡夜先輩でもないのにイチイチ覚えていないと、そうそうに思い出すのを諦める。
 営業中は馨の一挙一動に神経を研ぎ澄ませているし、馨もそうだろう。
『そりゃ、無意識にシンクロってる時もあるけどサ。やっぱ馨の事を見てないとあんなに息が合うかっていうの』
 不満げに馨の分の飲み物も飲み干して、置いたカップが割れこそはしなかったが派手な音を響かせる。
 この時。
 鏡夜が、環に向かって『余計なことはするな』と視線を送り、ハルヒまでが困ったようにケーキにフォークを突き立てていた事に僕は最後まで気付かなかったのである。







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