嘘つきな唇




  時計の針の一秒すらに無限を覚えてしまうのは待つ身の運命だろうか。
 馨が帰宅したと告げられて僕は慌てて中央階段を駆け降りる。空襲で焼け落ちた常陸院邸がクイーン・アン様式を模した洋館に立て替えられ、その後何回かの改築改装が行なわれたというが自分たちが生まれる前の事だし興味すらない。
 ただ、無駄に段差の低い階段は、和装の祖母の立ち居振る舞いを美しく見せるために特別に作らせたらしく、世間一般の段差とはかけ離れているために、降りるにしても昇るにしてもおかしな感覚に捕らわれる。
 それでもこの齢まで馴れ親しんだ自宅の階段で足を取られるはずもなく、一気に駆け降りた僕は帰宅した馨の目の前へと立ちはだかった。
「おかえり、馨。ってどうしたのさっ!」
 使用人がタオルに包んだ氷で馨の口元を冷やしている。医者を呼びにいかせろとの老執事の指示に周囲が慌ただしい。
 そんな使用人達を制止し、氷で冷やす手も押し退けて、馨は腰を掛けていた椅子から立ち上がる。
「ちょっとね。油断した」
 不機嫌そうなのは表情からだけでなく声音からも読み取れる。静かな怒りは眉間に皺を作り瞳の色を深く見せていた。


 ほんの一時間前……。
 部活のない放課後。
 地下駐車場から回された車に乗ろうとして、馨がいつまでも乗り込んでこない訳を聞く。「馨、何してんの?」
 少し強い風に馨の前髪が流れ一瞬だけであったがその表情を隠す。垣間見えたのは空虚な色を漂わす瞳。
「馨?」
 彼であって彼でない、空恐ろしい感覚に僕はは馨の腕を引き、車に乗るように促す。
「ゴメン光。実はさ……」
 言い出せずにいたのだと馨が鞄の中から一通の手紙を出す。白い封筒にうす桃色の花柄の明らかにラブレターと解るそれに僕は眉を寄せた。
「告白、されたんだ?」
 いつの間に受け取っていたのだろう。
 過去に手紙を破いたり入れ替わったりしたりと悪評があるので女の子達の恋愛対象からは外れていると思っていたのに。奇特な人間がいたものだと感心していると馨は中央塔の時計をチラリと見る。
「うん。待ち合わせの時間なんだ。ちょっと返事しとかなきゃならないし、悪いけど先に帰ってくれる?」
 そんなに時間が掛かるのだろうか? 断るなら一瞬で済むはずだし、たかだか十分ぐらいなら待っていてやっても良い。それなのに先に帰れという事は何かあるに違いない。
「……その子と付き合うの?」
 不機嫌を隠せないまま馨に問うが、当の馨は涼しい顔だ。
「まさか」
 ありえない。と、言葉にして馨は待ち合わせ場所へと行ってしまい、ただ一人残された僕は遣る瀬なさの中で立ち尽くす。
 運転手に促され車に乗り込んだ僕は隣の空間に思いを馳せた。帰ってきたなら絶対に事の次第を説明してもらわねばならないと。


 どんな子だったとか、何て言って断ったの? とか、どうして時間掛かったのかと聞きたいことは沢山あったが、怪我を負って帰ってきた馨に戸惑うしかなかった。
「それ、なに?」
 馨の整った顔に不釣り合いなそれ。形の良い唇も切れていて痛々しい。
「付き合いたくないって言ったら殴られた」
「随分気性の荒いお姫様だ」
 それよりも馨が女の子を傷つけるような発言をするとは思えなかった。昔と違い今は性格も随分丸くなっているというのに。
 しかし、現実に馨は殴られて帰ってきたのだから、よほど辛辣な言葉で袖にしたに違いない。
 頬が赤いのは打ち身の赤さだろうが、もしかしたら数日は青くなって残るかもしれない。
「……キスしようとしたら、噛まれちゃってこの有様」
 口の端だけで笑おうとしたのだが、切れたところが痛むのだろう。顔を歪めた馨に僕は思う。
『馨らしくない』
 女の子にキスを迫るなんて。潔癖性な馨が、面識のない女の子に、好きでもない女の子にキスをしようとするだろうか?
「卒業前の思い出にっていうからさ」
 キスぐらいどうって事ないし。と、不貞腐れたように部屋へと続く階段を上る馨。
 その後姿をまたしても見つめながら、最後に見せた冷たい瞳の色を思い出す。
『馨らしくない』
 それが成長の過程だというのなら成長なんてしなくてもよいのにと、遠く離れていく馨を置き去りになる者の哀愁でもって見送るのだった。











新しく連載していく予定です。かっこいい光・・・を目指して!?



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