最後の恋 5
母の常陸院柚葉は世界的にも有名なデザイナーだ。 次女として生まれた彼女は常陸院家を継ぐつもりもなく、自由気ままにデザイナーとして自分の道を追求してきたのだが、紆余曲折の結果、家督を相続した。 それでも……。華道家の名を継ぐ事なく、我が道を突き進んだ母はデザイナーとして成功を収めていた。 そんな母の子供である僕らが身につけるものは母のデザインが大半で、光用の男物、僕用の女物と、母のデザインは性別に関係なく多岐に渡る。 残念な事に僕用の女物はどれだけ数を作っても日の目を見る事はなかったが、母は僕が光と同じ物を着たがるのに何一つ文句を言わなかった。 ただ、年に一度だけ僕は似合わない女物を身につけて母と共に出掛けるのが恒例になっていたので、その時だけは憐れな衣服の内たった一枚が救済される。 母はデザインに行き詰まると手入れの行き届いた庭園の四阿で僕を相手にスケッチしたりしてイメージを膨らませる事もあるので、 「馨、モデルになって」 と、僕だけを指名しても光は何も口を挟まない。 だから年に一度、何時間か留守にしても光は気付かないか、母の我侭に付き合っているぐらいにしか考えていないだろう。 今日も母から直々に着付けやメイクほどこされた僕は、どうせ似合わないのだからいい加減にしてほしいと生欠伸を噛み殺していた。 「イメージどおりね。もう少し髪の長いウィッグでも良かったけど、時間もないし出掛けるわよ」 急かす母に僕の口から長年の疑問が投げ掛けられる。 「どうして僕が母さんに付き合わなきゃならないの?」 毎年そうだ。 母の姉を含めた三人での食事会。大抵が僕らの誕生月の六月だったが、母の都合もあり今年はかなり過ぎている。 「女同士で良いじゃない? 馨だって伯母さんからのプレゼント嬉しいでしょ?」 「でも、伯母さんと食事って、光だって誘えば良いのに……」 僕の言葉に母は困ったように言葉を探しているようだった。 「常陸院は女系だからねー」 「えー、訳わかんない」 光と引き離されるのが嫌で泣いてばかりいた頃とは違う。だが光に隠し事をしている後ろめたさもあり、機嫌の悪い僕に母は真摯な声音で僕を見た。 「……馨にはそろそろ話さなきゃね」 そう口火を切った母の言葉は、沈みがちだった僕に絶大な衝撃を与える事となる。 ゆっくりと形の良い唇が、青みがかったローズ色の口紅を塗った唇が、ゆっくりと動いて言葉を紡ぎだす。 「どうして長女である姉さんが常陸院を継いでいないか馨は考えた事があったかしら?」 「いつまでも結婚しようとしなかったから、お祖母さまが怒ったとぐらいしか考えてなかったけど……」 伯母さんも今は結婚しているけれど、早くに結婚し男児を産んだ母が、祖母の意向を汲み常陸院を相続したとばかり思っていた。 だが、真相は違ったのだ。 「あれは、16年前の6月8日の事だったわ」 姉の結婚は反対されていて、それでもお腹の中に子供がいたの。相手は当時の庭師の息子で、母が反対したのは世間体があったからね。 今で言う出来婚を狙っていたらしいけれど、臨月になっても母はどうしても首を縦に振ろうとはしなかったの。 お腹にいた子が女の子だったから余計でしょうね。 ちょうど私も妊娠していて……。姉さんと予定日は10日ぐらいしかずれていなくて。 良い遊び相手になるだろう。賑やかになるだろうっていつも話していたわ。 だけど、あの日。 毎週になった検診のために病院へ行った私達は交通事故に合ったの。 車は大破して、私達は急遽入院。その事故で義理の兄になる予定だった人は帰らない人になってね。 姉は精神的ショックからか陣痛が起こって。でも、もう39週だったし生まれても問題はなかったからすぐに分娩室へと運ばれたらしいわ。 けれど、私達とっても動揺していたのね。私の場合はストレスからか光の心音が下がってきて、手術が決まったのは9日になっていたわ。 姉の陣痛もなかなか進まなくて、光が産声を上げて間もなく分娩室で馨が生まれたの。馨と光が同じ誕生日なのはそういう理由があったのよ。 もうここまで話せば頭の良い馨なら解るでしょう? そう言って母は口を閉ざす。 「ちょっと待って。伯母さんの生んだ子供って僕なの? じゃあ僕は伯母さんの子供で母さんの子供じゃないの?」 母さんが帝王切開で光を生んだ時、伯母さんが長い陣痛の末に僕を生んだと聞こえた気がしたのだ。 だが母はその疑問に黙ったままで肯定したのである。 「姉さん、ご主人を亡くしたショックが大きくて。自分と馨を庇ったから死んだって精神的に病んでたのね」 長く床から起きれなくて、あげくの果てに、未婚の母の子としてより、常陸院の子として馨を育ててくれって。 だから馨は名前も常陸院だし、同じ誕生日だから光と双子として育ててきたわ。 住民票や戸籍を見る機会なんてなかったでしょうから気付かなかったでしょう? 姉さんも馨はとっくに養女になったと思っているでしょうね。 養女にしようかと随分話し合ったのだけど、今後不都合や不利益があるなら変えようって事で今まで来たわ。 馨から見たら実母に捨てられた気持ちになると思うだろうけど、姉さんはちゃんとお腹にいる頃からあなたを愛しているわ。 ただ、母に結婚を反対され入籍できないまま産んだから、幸せにするには私達の子として育てるしかないって思ったのね。 馨にとって実母とともにいる方が良いって説得したけれど、姉さんの精神状態がとても不安定だったのもあって、回復するまでと思ったのだけど。 あれで結構頑固なのよ、姉さん。年に一度、馨とゆっくり話せればそれで良いって。 それに馨は光にべったりだったし、光も馨から離れなかったので、元に戻さず今に至るのよ。 確かに、私のお腹から馨は生まれた訳ではないけれど、私達馨を実の娘だと思っているわ。そして姉さんも決して馨を忘れようとはしていないわ。ただ馨が不自由なく育つ事が幸せだと思っているの。 母達がどんなに悩んだか。こうして話すのもどれだけ覚悟か要ったか。どんな想像力の乏しい人間にでも解るだろう。 思い出すのは、幼い頃、留守がちの屋敷に泊りにきてくれた伯母さんの顔。 光と散々悪戯しても足繁く来てくれた。蛙ババアだなんて苛めても懲りずにきてくれたのは彼女だけだった。 今更彼女を母とは呼べないし、正直ショックも大きかった。今まで信じていたものが全て覆されたのだから当たり前だろう。 しかし現金な事に、僕は光と兄妹でなかった事に感謝していたのだ。 それに僕はけっして不幸だった訳ではなく、何一つ不自由なく育てられたのだ。 我が子を捨てた彼女を恨む気持ちもあったが、それでも彼女から生まれたからこそ、僕は光への愛を貫けるのだ。 光を好きでも構わない。愛しても罪にはならない。 それがどんなに嬉しいか……。 「お母さん、ありがとう」 話してくれて。 育ててくれて。 愛してくれて。 僕はいっぱいのありがとうをその一言に詰めていた。 母は、僕がすんなり受け入れた事の理由に気付いているだろう。安堵した表情からどれだけ迷ったかも解る。 僕は光へ恋しても良いのだと思うだけで嬉しくて涙が出た。 今まで光へと手の届く彼女達を羨んでばかりいたけれど、僕にだってチャンスはあるのだ。 諦めなくても良いと解っただけでも嬉しくて嬉しくて……。 しかし、そんな喜びの涙も数時間後には枯れはててしまう事となる。 そして僕はもう二度と喜びの涙なんか流さない。 僕の涙は悲しみのためだけに、流される……。 |