当たり前の奇跡 05




 四時間目の授業が終わったと告げる鐘が鳴り響く。廊下は息を吹き返したように途端に賑やかになるのはどこの学校でも同じだろう。
 食堂へ行こうと光が馨に視線をやるが、馨は欠伸を噛み殺しその瞳に自然現象である涙と呼ばれる水分を分泌させていた。
「睡眠不足。お昼食べられない」
 授業は最大限の集中力で乗り切ったらしい馨も机に突っ伏して保健室で寝ると宣言した。
 勿論そんな馨を放っておく光ではない。
「じゃあついてく」
「光はちゃんと食べてきなよ、ハルヒ一緒に行ってやって」
 廊下を出て反対方向へと歩き始める。真横に視線を動かすだけでは隣に歩く人物が見えなくて光はそんな違和感に居心地の悪さを感じていた。
「変なカンジ」
 右手側にハルヒが歩いているからだろうか。ここはいつも馨のポジションだから質量としての違和感があるのかもしれない。
 何時の間にか眉を寄せていたのをハルヒに目敏く指摘される。
「本当に光は馨が気になるんだね」
「そりゃあ……ネ」
 気にならない方がおかしいだろう。双子の弟が心配なのは兄として当然の事で、ハルヒと一緒なら楽しいはずなのに今はあまり面白くない。
 馨がいないと世界は色褪せる。
 それでなくとも今は馨の様子がおかしいのだから……。
「なぁハルヒ、その弁当ちょーだい。馨にやる」
 きっと馨もハルヒの手作り弁当となると元気が出るに違いない。良い事を思いついたとばかりに笑顔になった光にハルヒも了承する。
 一番早く出来上がるだろうAランチを二つ注文し、いつもの倍のスピードで食べおわった光はハルヒに礼を言うと保健室へと向かう。
 特別男子保健室とプレートの掛けられた扉を勢いのまま開けようとして光は手を止める。もし馨が眠っているのなら起こしたくはない。
 そっと扉を開けるとカメラのシャッター音が響き、フイルムを巻き上げる音がした。
「馨? いるんだろ?」
「っ!!」
 光が扉を開けきるより早く、内側から強引に扉が開かれる。ノブを持っていた光がバランスを崩しそうになった瞬間、誰かと肩がぶつかった。
「ったく、気をつけろっつーの」
 光とぶつかった人物は詫びを言うでもなく、全速力で廊下を走り、まるで隠れるかのように角を曲がって行く。
 その後姿に悪態を吐いて、光は保健室のベッドへと視線を向けた。
 カーテンが揺れている。
 あの内側に馨がいるのだろうと、そっとカーテンを開けた光は思わず息を飲んだ。
 馨が想像以上に綺麗な寝顔を見せていただけではない。
 シーツで隠しきれなかった背中は衣服を着用していなかったし、ベルトが緩みスラックスと腰骨との隙間から下着まで見えていたからだ。いわゆる乱れた姿だ。
 今自分は見てはいけないものを見てしまっているのだろうか。
「……あいつ何してたんだよ?」
 一瞬にして頭に血が上る。
 まさか写真を撮られていたのか?
 こんな無防備な姿を他の人間にまで見られていたのかと思うと握った拳が震える。よくも眠っている馨にイタズラしようだなんて……。
「許せるかよっ」
 やはりついてくれば良かったのだ。
 自分が感じた馨への印象はきっと他の人間も思っていて、未然に防げるはずの事を防げなかった自分に嫌気がした。
 自分達が兄弟愛をウリにしているのを本気でとらえて馨を辱めようとする人間が現われるなんて、今まで想像もしなかったが甘かったとしか言いようがない。
 周囲が喜んだり、いつものように遠巻きに見るのとは違う視線が面白かっただけなのに。
「ちくしょう……」
 あの逃げた生徒の顔を見ておけば良かったと思うがもう後の祭りだ。しかし今度見付けたなら容赦なんてするものかと光は決心する。
「光?」
 起きた馨の背中にシャツを掛ける。
「あのさぁ、馨もさぁ、なんでシャツ脱いでんの?」
 そんな風だから付け込まれるのだ。
 自分ではしっかりしていると思い込んでいる様子の馨だったが、これからは気を付けるように言わなければなるまい。
「シャツ? 皺になるのヤだし」
 しどろもどろの言い訳。
「……!?」
 その瞬間、光は自分が邪魔者だったのかもしれない可能性に気が付いて血の気が引く思いがした。
 悪漢から馨を助けたつもりでいい気になっていたが、まさか自分が二人の邪魔をしたのかもしれない可能性に思い至ったのだ。
 その証拠に都合良く起きた馨。
 まさか眠っていたフリをしていたのだろうか。
 もしそうだった場合、ここで何をしようとしていたのだろうかと考えると薄ら寒くなってくる。
 シャツを羽織り、ネクタイを絞める手が震えているようには見えなくもない。
 まさか自分の弟が……?
 裸体なんか見慣れているし、部活動では愛だって囁く。
 だが他の誰かが同じ事を馨にしているかと思うと気持ちが悪かった。
 自分は可愛い弟と思っていたが、他の誰かは馨を可愛い恋人とでも思っているのだろうか?
 否定する材料が見つからなくて、急に足元が不安定だと思い知る。



 世界は想像以上に複雑な色合を見せ始めていた。









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