当たり前の奇跡 11





 昔の自分なら、二日連続で馨より早く学校へと行くなんて絶対にありえないと光は車の中でため息をつく。
 馨が何を考えているのか聞くつもりだった深夜。
 もしかしたら、馨が寝呆けて保健室の男の名を呼ぶかもしれないと押さえ付けてはみたものの、案外目覚めの良かった馨の機嫌を損ねてしまい目的は達成できなかった。
 さらに、あの写真の事とかも詰問するつもりだったのに、馨のあの一言で有耶無耶になってしまったのだ。
『初めてだから、優しくしてネ』
 恥ずかしそうに顔を赤らめた馨の一言にゴクリと喉がなった自分に驚いて結果的には馨を解放してしまい、何も聞けずに終わったのだ。
 つまりは自爆してしまったんじゃないかと光は足元に視線を落とす。
 押さえ付けた馨の身体。苦しそうに呼吸する馨の表情。困ったような馨の視線。
 そのすべてを今も鮮明に思い出す。
 聞きたいことはたくさんあったのに、押さえ付けた瞬間からそれらを忘れてしまっていた。
 この視点で馨を見たのが自分だけでないかもしれないというやるせなさの中で、結局解ったのはあの保健室の男が馨をどうみているかだけだった。
 想像以上に艶のある表情を見せる馨。
 写真の中だけでない目の前にある存在。
 保健室で馨の写真を撮った男の気持ちが痛い程に解る。
 馨は誰よりもキレイだ。
 写真が同意の上だったのか脅しての事だったかは解らないが、馨の事は脅してでも手に入れたくなるのかもしれない。
 何も聞けずに、それどころか知りたくない事まで知ってしまった自分を光は持て余す。
 こうして逃げていては何も解決は出来ない。馨を守ってやれるのは自分だけなのだ。そのためには馨が何を考えて、何をしているのか把握せねばならないというのに、自分はこうして逃げてしまっている。
 昨夜の事もあり、二日続けて一人で登校した事もあり、授業が始まっても馨は怒っているのか挨拶すらしようとしない。
 ハルヒが心配そうにしている。
「馨が怒るなんて珍しいね。光、何をやったの?」
「やっぱり怒ってるのか……」
 誰かとメールしているらしく、色違いで持っている携帯電話と睨めっこしている馨に、いつまでもこのままではいられないと勇気を出して話し掛ける。
「誰とメールしてんのさ」
 携帯電話から視線を上げて、躊躇うような表情を見せた馨だったがいつもと同じような口調と笑みで答える。
「……鏡夜先輩」
 それでもぎこちなさの残る二人の間にハルヒが何気ない日常を持ち出して、なんとか場が和む。馨も昨夜の事などなかったかのように振る舞っていた。
 けれども、その『いつもの態度』に違和感を感じてしまうのは自分のせいなのだろうか。
 鏡夜先輩と馨。ハルヒと馨。
 こうして見てみれば馨の世界の方が自分の何倍も広くて深い事が解る。それでも今までは馨の中で自分が一番であるという自負があった。
『まさか馨が僕より他人を優先してるのか?』
 そんな事はありえないと浮かんだ疑問を否定する。
 双子なんだ。兄弟なんだ。どんなに世界が広がったって唯一無二はお互いでしかないはずなのに。
『馨は何を考えてる?』
 手にとって解るはずだと思っていた馨の心が見えなくて、初めて言葉を飲み込んでいた。






 その日の放課後。
 上品な仕草でカップを置いた『お客様』が僕達に話し掛けてくる。
「週末の御予定は?」
 三連休の予定ともなれば、海外に行く事の多い彼女達。目的地が一緒だったら現地でお会いしましょうという社交辞令が交わされるところであるが、そんな彼女達が僕達に求めるところは一つで。
「父も母も出張だからね、馨と淋しく慰め合うつもり。もちろんベッドでね」
 ほら、こんな嘘で目を輝かしている。一体彼女達はどこまで信じていてどこまで期待しているのだろう。
「もう、光! 皆の前でバラさないでよっ」
 馨が慌てて止めに入るがそれら全てが営業トークだ。顔を赤らめている馨の演技に感嘆しつつも、それが『演技』である事に心が晴れない。
 馨のこんな表情の、本気で顔を赤らめている姿を見てみたい。そんな衝動。
「大丈夫、これ以上は僕達だけの秘密だから」
 自分の手が無意識に馨を捕まえるのを許す。どこかに残虐な感情が隠れているようで、それを無視してゆっくりと馨を引き寄せる。
 このままずっと演技を続けるのか。
 どこまで演技を続けるのか知りたくなって、僕は馨を抱き締めてその唇に己れの唇を押しあてる。
 つまり。
 キスをしてしまっていたのだ。
 流石に胸を突き飛ばされて、自分が何をしてしまったかを認識する。周囲で沸き起こった歓声すら耳に入ってこないぐらいに時間が止まる。
 馨の傷ついたような表情。
「……光、」
 馨も営業用のトークが出てこないらしい。演技ではなく顔を赤くしているのは怒りかもしれない。
 口元を拭いこちらを睨み付ける馨。多分、本気で怒るところをこの場所だからと遠慮しているのだろう。
 すべてはお客様の夢を壊さないために。
 押しあてただけのキス。
 予想外に高鳴る胸。
 それがこんなにも苦しくなるなんて。
 キスしてしまった事を後悔している訳ではない。
 ただ、間近で見た馨の整った顔に浮かぶ美しく艶のある表情を他の奴が同じように間近でこの表情を見ていたかもしれない事が許せなかった。


 キスは想像以上に甘くて、二人の世界を祝福しているようですらあった。


 勿論それは錯覚でしかなかったのだけれども……。











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