夢殿5



 夕刻すぎに塔矢明子夫人が別邸に到着し、使用人達の忙しさはピークに達した。
 一緒に連れ立ってきた彼女の友人やその娘達のために部屋を用意したり出迎えたりと用事は多い。
 執事見習いの芦原などは玄関へと張り付け状態となる有様である。
「これで最後ってところかな」
 遅れて到着した者を部屋へと案内した芦原はやっと一息つく。
「っとこうしちゃいられない。奥様に呼ばれているんだ。まったく気が重いよ」
 気も重いし、足取りも重い芦原は塔矢夫人の部屋をノックする。
 優雅にソファに腰掛けて、パーティーに備えて明子付きの侍女が髪を結い直している。
「アキラさんのお知り合いの方が滞在なさっているんですって?」
 穏やかな口調なれど、鏡を見ながら仕上がりを確認し、チラリと一瞥する視線は流石にアキラの母親であると言えた。
「はい、あの」
 芦原は口篭もりながらなんとか説明しようとするが上手く言葉が出てこない。
 進藤ヒカルと名乗る記憶喪失の少年が女の子に扮していて、アキラの意中の人を演じている。……という事実は絶対に知られてはならない。
 辛うじて芦原はアキラの招待でどこかの令嬢が来ているとだけ伝える。
「まぁ。それでどんなお嬢さん?」
 取り立てて怒っているような様子は無い。
 どちらかというと楽しんでいるようですらある。
「そっそれがですね、えっと」
 ヒカルをお嬢さんとは思っていない芦原は、上手く説明の仕様が無いので困り果ててしまう。
 ついでにヒカルの姿も先程ちらりと見ただけなのだ。
「良いわ、直接逢いに行くから」
 案外好奇心旺盛なのか明子はヒカルに会うために立ち上がると、芦原に案内されて客室へと向かうのであった。

                            * * * *

 それは進藤ヒカルにとって一番緊張した瞬間だった。
 渋々ながら扉を開けた芦原の後には塔矢明子夫人が立っていたのだ。
 可愛い息子を誑かした性悪女とでも詰られるのかとヒカルは覚悟する。
 黙ってヒカルを見る明子の、値踏みするような視線にヒカルは小さな顎をあげて精一杯の虚勢を張った。
 令嬢に見えるようにと折角市河が苦心したのだから、後は自分の立ち居振る舞いにかかっている。
 ヒカルは出来るだけ優雅に見えるようにと、初対面の明子に腰を折って挨拶をした。
「お招きに預かって光栄です。進藤ヒカルと申します」
 変声期は済んだが、それでもやや高いヒカルの声は少々意識しただけでハスキーな女性の声と変わりが無くなる。
 それに、その愛くるしい顔立ちからは、少女以外を想像するのは難しかった。
「あらあら可愛いお嬢さんだこと」
 それが嫌味で言われたものではなく、本音から出た言葉だと明子の明るい表情から推測できる。
「アキラさんったら、てっきり興味が無いのだと思って、見合いのお世話を頼んだのだけれど必要なかったのね」
 ヒカルを気に入ったのだろう。
 明子は、何故妙齢の娘が自分の別荘に居るかを発展的な発想で片付けたらしい。
「この年でおばあちゃんだなんて嫌よ、アキラさん」
「僕達は知合ったばかりですよ。けれど僕は真剣ですから」
 アキラは母の言葉に動揺しつつ、あっさりと計画が成就してしまった様子に胸を撫で下ろした。
 息子の意中の女性の存在により、見合いなどという堅苦しい事をしなくて良いとばかりに明子は喜んでいる。
 この分だと本物の婚約者を決めなくても良いだろう。我ながら良い考えが浮かんだものだと思うアキラである。
「今日のパーティーは極内輪なものなの。アキラさんが女性に興味が湧くように、私のお友達とそのお嬢さん方も大勢御招待したのよ。でも必要なかったのね〜」
 嬉しそうに言う母親にアキラは心の中で謝った。
 嘘をついて騙している事、そして本当に進藤ヒカルに惹かれている事に対する親不孝に……。
「さぁ、広間へまいりましょう。ヒカルさんの席はアキラさんの隣でよろしいわよね?」
 明子の言葉に促され、一同が集う広間へと顔を出す。
「悪いね、進藤。まだ病み上がりなのに無理をさせて。少し挨拶をしてくれるから待っていてくれるかい?」
 言われずともなるべくこの姿を晒したくないヒカルはアキラの言葉に頷くと壁際のソファへと腰掛けた。
「はぁ……」
 ため息混じりにヒカルは歓談を楽しむ人を観察する。
 男性の数と女性の数が同等に招待されているが、女性の方は自分達と同じ年頃の女の子が多く招待されている事にヒカルは気が付いた。
 それに若いだけじゃなくなんと美しい事だろうか。これだけ魅力的な女性が大勢いるのだから、案外早くアキラの婚約者が決まるかも知れないとヒカルは思う。
 そうなると自分の役目は終わり、ここを出ていく事になる。
 その不安からであろう。緩やかなウェーブをした髪の女性と話をしているアキラを見てヒカルの胸が痛んだ。
 次から次へと挨拶をしていくアキラの凛々しく美しい笑み。ついさっきまでは自分が独占していたアキラの笑み。
 それが自分でない誰かに惜し気もなく振り撒かれているかと思うと、ヒカルはその場所に居るのが急に嫌になる。
 誰も自分など気にも止めていない。アキラでさえもどこかの令嬢と話していて、視線が合う事も無い。
 居心地の悪さを感じて、ヒカルは新鮮な空気を吸う目的でバルコニーへと出た。
「ここなら、塔矢にも解るだろ」
 そういうとヒカルは暗闇へと視線を泳がせる。
 暗い海。
 潮風と波の音がすべての暗い海。その中で唯一の明かりである灯台が多くの船のために海の道を指し示していた。
 その光を見ながら自分の選択すべき道はどれだろうかとヒカルは物思いに耽る。
 暫らく海を見つめていると急に手元が暗くなって、ヒカルは背後に立つ者によって屋敷の明かりが遮られた事を知り、そして振り返った。
 恐らく自分の姿が見えないので、この屋敷の未来の主人が探しにきたのだろうとヒカルは思ったのだ。
「塔矢?」
 その時ヒカルは、自分に灯台の光が届かない事を知った。


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