ヒカルが救助されて一週間が経過しようとしていた。
背中の傷もすっかり癒え、体力的にも十分回復したようであったが、芦原が起き上がる事を許さなかったため、ヒカルは退屈な日々を過ごしているように見えた。
その話相手にと、アキラは頻繁にヒカルの元へと訪れる。
そしてヒカルの時折見せる表情にアキラは戸惑いながらも、ヒカルの謎に対して、追及の手は緩めなかった。
政治や経済、はたまた一般教養まで幅広い会話の中からヒカル個人の話に持っていこうとするのだがどうも巧く躱されていく。
「本当は記憶があるんじゃないか。あの進藤家の縁の者とか……」
射ぬくような視線でアキラは核心に及ぶのだが、ヒカルはひまわりの花のように明るく笑ってみせた。
「俺が? 記憶無いのに解んねーよ」
その笑みは、普段見せる憂い顔と違い、誰もが彼に見惚れるものでアキラもその例外ではなく一瞬息を飲む。
「進藤くんが? アキラくんと物腰が違うよ。進藤家といえば公卿の血筋だろう? とても……ねぇ? まぁ遠縁ってのも考えられるけど、俺の見立てではかなり遠いね」
芦原はアキラの言葉に手を振って『それは絶対に無い』と完全否定する。
「ひっでー」
ヒカルは憤慨したような表情を作るが、本気で無い証拠に自分自身大笑いしていた。
つられるようにアキラも芦原も破顔させたが、アキラは心に引っ掛かるものを感じていた。
午睡のためにと、芦原と二人で部屋を辞すと、先程までの柔和な笑みを一変させて芦原はアキラに忠告した。
「気を付けた方が良いよ、物取りの類かもしれないんだから。進藤家に忍び込んで、金目の物とか……、服とかも漁っていて、で見つかって竹刀で打たれて海に放りこまれたのかもしれない」
そんな芦原の真剣な口振りにアキラは目を見開く。
「芦原さんは想像力がたくましい」
そして感心したように言うと、次はくつくつと笑いだした。
「笑い事じゃないんだけどなぁ」
アキラに笑われてしまって、芦原は『まいったなぁ』と呟いて頭を掻いた。
そんな芦原を慰めるようにアキラは自分が否定した根拠を述べる。
「彼みたいな細腕で何が出来るっていうんです? そうでしょ。それに僕は剣道の有段者です」
例えなにか有ったとしても対応する自信がアキラには有り、それが言葉の端々に感じ取れた。
「ついでに柔道、合気道、文武兼ね備えてますよ、アキラ様はね」
嬉しそうに言う芦原にアキラは困ったような顔を見せた。
「所詮、父と母の面目の為だけれどね。その調子で嫁取りまで親の意向で振り回される身にもなって欲しいよ」
今まで十分に親の願い通りに育ってきたとアキラ自身も思う。
最終的には親の意向に沿うのだとしても、今はその時期では無いと思ってしまうのは我侭だろうか。
そんな普段の悩みとは別にアキラの脳裏からはヒカルの姿が消える事はなかった。
まるで引き付けられるように、翌日もヒカルの部屋を訪れる。
表向きはヒカルの記憶を取り戻す手伝いと言いながら、彼か隠している謎の究明に意識が向いていた。
そんな中、当たり障りの無い会話をしながら、ヒカルが怖ず怖ずと切り出す。
「怪我治ったんだけど、俺行くところ無いし。ここで何か仕事でもあればって思ってるんだけど……」
突然の申し出にアキラは驚くしかなかった。
「君が?」
アキラの問い詰めるような口調にヒカルは首を竦める。
ヒカル自身甘い考えだったろうかと思ったのだが、一度口にしたのだから仕方ない。
「ダメ?」
勿論の事ながら記憶喪失の振りをするのは身を隠すためだった。卑怯だと思うが今は向き合う自信も無い。
芦原に頼み、日々の新聞に目を通してはいるが、ヒカルが望むような記事については微塵も無い。
そうなるとむしろ水面下で警察が動いているのではないかと憶測してしまう。
進藤家の跡取りの不祥事は何があっても避けなければならない。もし新聞沙汰になろうものなら脈々と続いた進藤家を社会的に潰す事になる。
一番良い方法は自分という存在の消去であると解っていても……。せめて、あの出来事が事件として、どう取り扱われるのかを知るまでは、姿を隠そうとヒカルは思うのだ。
切実なヒカルの表情に、とうとうアキラは折れた。
「父と母が僕に見合いを勧めて困っているんだ。僕はまだ結婚なんて考えられないし、それで君を婚約者に考えていると紹介しようと思う」
必要な時に婚約者を演じてくれれば良いよとアキラが言う。
「俺、男に見えない?」
遠回しに働く事を拒まれているのだろうかとヒカルは悲しくなる。ここを出れば行くところは無いのだ。
「もちろん見えるさ、今はね。けれど君には性別を超越した魅力があるんだ。それに、着るもの次第でどうとでもなる」
アキラは自分の考えが一番良いだろうと判断を下した。
どうみてもヒカルが働く口を探しているようには見えないし、その手は労働者の手ではない。
ヒカルがここに居たいというならアキラにはなんの不都合もない。ただ一石二鳥の案が浮かんだだけなのだ。
「それに君が男だという方が有り難いんだ。本当の女性にこんな事を頼めると思うかい? 良家の子女なら尚更だ」
その言葉にヒカルももっともだと頷く。
「そんなに回数的に多い訳じゃないし、それで住み込みの働き口なら条件は良いんじゃないか」
アキラの提案にヒカルは数瞬の間考えていたようだが、リスク以上にメリットも多いと判断を下し、思い切って決心した。
「うん、じゃあよろしく。塔矢…いやアキラ様、かな?」
「塔矢で良いよ。婚約者を演じる時だけはアキラって呼んでくれ」
そして早速とばかりに女中頭の市河が部屋に呼ばれた。アキラの味方である市河は一通りの説明を受けて苦笑する。
「アキラくんも奇抜な事を考えるわよね」
確かに、親には既に将来を約束したと言えば、見合いの話も一時中断となるだろう。それから身元調査をして、差し障りがあるなら、幾何かの手切金と相成るだろうと推測できる。
一時凌ぎではあろうが、時間稼ぎには有効であろう。
「じゃあ早速用意しなくちゃ」
市河はヒカルを深窓の令嬢に仕立て上げるべく、慎重に衣服を見立てそして念入りに化粧を施した。
ウイッグで短い髪の毛を後に束ねたようにして違和感を消し、濃すぎずに品のある化粧と、小さな唇に紅をうっすらと引いただけでヒカルは少女に変身する。
「会心の仕上がりだわ」
市河の言葉どおり、どこからみても愛らしい少女だった。
「君が婚約者だったら一刻も待たずにプロポーズしてしまいそうだよ」
そんなアキラの言葉にヒカルもやっと胸を撫で下ろした。婚約者の振りをするならせめて女に見えなければ話にならないし、その成功如何によっは自分の身の振り方も考えねばならないからだ。
「良かったわね、アキラくん。奥様が今夜こちらでパーティーを開きたいとおっしゃってお友達と一緒に向かっていると連絡があったばかりなのよ」
その言葉を、母の気紛はいつもの事だとばかりにアキラは受けとめる。
「丁度良かった。期待しているよ進藤。いやヒカル」
手の甲に口づけして、その柔らかさにアキラは胸が高鳴った。それ以上にヒカルの魅力に目を奪われていて……。
しかし、一瞬ヒカルの表情が恐怖で強ばった事をアキラは感じていた。今のは恐怖する場面なのか? アキラの中で疑問が泡のように膨らんでいく。
またしても目の前に立ちはだかる謎……。
彼にはいくつ謎があるのだろうか。そう思うとますますヒカルの事が脳裏から離れられなくなっていく。
その瞬間、目の前で恥ずかしそうにこちらを見るヒカルに、アキラは心奪われていくのを自覚した……。
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