夢殿3



 気が付いて絶望した。
 視界に入った天井が涙で霞む。
 病院独特の匂いは無いが、ここがどこにしろ、自分の命が助かった事に変わりはなく、ヒカルはそれを嘆いた。

* * * *

 白い砂。
 あちらこちらには海から打ち上げられた貝の亡骸。
 背も高く温厚な性格が顔にまで表れたかのような青年が、一人の少年を追い掛けるように走ってくる。
「おーい、待てよ。本当にアキラ君も気紛れなんだから」
 アキラと呼ばれた少年は歩き辛いであろう砂浜を、まるで苛立ちをぶつけるかの様に歩いていたのだが、背後からの声にやっとその歩みを止める。
「嫌だな芦原さんまで……」
 追い掛けてきた芦原がアキラの隣に立ち、それを待ってたかのようにアキラは再び歩きだす。
「だってそうじゃないか、突然ここに来るだなんて言い出すんだから。また奥様かい?」
 揶揄するような口調の芦原だったが、彼の人柄なのか嫌味ではない。
「違うよ。単なる休暇を楽しみにきたんだ」
 芦原とは対照的にアキラの口調も表情も硬く、その言葉が本心でない事を示している。
「そうかてっきり、また見合い話に辟易して逃げ出したのかと思ったよ」
 図星をさされたのであろう。
 二人の間に沈黙が走り、波音だけが世界を支配する。しかしそれもアキラによって破られた。
「どこか血筋の良い家柄を。……なんて考えてるみたいだけどね」
 ため息をつくアキラに芦原は苦笑する。
「まだ、早すぎるっていうんじゃないだろう? 16になったんだ。許婚の一人や二人」
「芦原さん、許婚は複数じゃありません」
 きっぱりと叩きつけるような口調はアキラの性格をよく現していた。他人に迷惑をかけない限り、己れを信じる強さのような気高さが感じられる。
「おい、怒るなよ。アキラっ」
 芦原は先へ先へと歩くアキラの後を慌てて追うた。



 塔矢アキラの生家はつい最近華族の一員となった通称『新華族』であった。
 大名や公卿の血を継承しての華族と違い、明治に入ってなにかしらの功績が認められるなどして華族となったのが新華族と称される。
 比較的裕福な家庭といえ、その証拠に今アキラの歩いている白い砂浜もそこから切り立ったような断崖絶壁もすべて塔矢家の所有であった。
 もちろん本宅ではなく別邸であり、ついでにいうなら景色が気に入ったからと言って買い求めた土地である。
 今回はその意味合いが異なるが、アキラは休暇となるとこの別邸へと足繁く通った。
 言葉遣いからは考えられないだろうが、一応執事見習いでもあり、アキラの兄的存在の芦原とアキラは無言で砂浜を歩く。
「今日の潮は大潮かぁ。もうすぐ満潮の時刻みたいだな」
 だからそろそろ引き返さないか? という芦原の心情がアキラにも伝わってくる。その証拠にいつもならもっと遠くまで続く白い砂浜も、今は海水に飲まれてしまったかのようであった。
 何時の間にか足元は砂浜から岩場へと移っていて、潮風に耐えつつも枝を張った松の木が所々に生えている、岸壁の下にまで来ていた。
 遊歩道のように整備されている訳ではないが、岩場から上へと上がっていく道が有り、二人はその道へと向かって歩きだす。
 そんな二人の視界に入ったものが、二人の足を止めた。アキラも芦原も一瞬顔を見合わせる。
「見付けてしまったものは仕方ないな」
 波によって打ち上げられた『それ』を見て、アキラは迷う事なく歩み寄った。
「アキラくん、警察に連絡すべきだよ」
 『人間』が打ち上げられていたら、誰だって同じ反応をしたであろう。もちろんアキラとて、常識的に処理すれば良いと思っていたが、何故かそれが出来なかったのだ。
 青ざめた顔はまだ引き締まっており、死体でない事は見て取れる。自分と同じ年頃の少年の口元に、アキラは手をやった。
「大丈夫、息はある」
 運が良かったのだろう。岩場に流れ着いた割に、大きな怪我をしている様子は無い。
「もしかして、連れて帰るつもりなんじゃないだろうね?」
 しかしいくら抗議をしたところで、アキラがその意志を曲げる事が無い事は芦原も長年の経験で解っていたため、大きくため息をつくとアキラを手伝うべく上着の袖をまくり上げた。



 やっとの思いで厄介者を屋敷に連れ帰り、アキラが手当てするというのを、そんな事はさせられないと必死に制止して……、つまり渋々ながらアキラが見守る中で『少年』の手当てをした芦原である。
 アキラと同じぐらいの年格好で、目をひいたのはなんとも奇抜な前髪の色。
 そして小さな卵形の輪郭にバランス良く配置されたパーツを見ながら、アキラとはまた違った趣がある等と芦原は意外にも冷静に観察していた。
 そして衣服を着替えさせていて気が付いた、背中の傷。
「これは?」
 芦原の疑問の声に、傍らで手伝っていたアキラが呟く。
「背中の腫れは竹刀で殴られた痕だ」
 その他は掠り傷があるとはいえ、それだけが異様に目立つ。芦原と二人で手当てをし、傷に障らないように少年を横たえてやる。
 しかし、痛みは少年の意識を取り戻させるのに十分だったようだ。
「んっ」
 微かな呻き声と共に目蓋が持ち上げられて、その大きな瞳が開く。
 しかし次の瞬間、少年は苦悩に満ちた表情を見せた。
 一体何が彼を悩ませているのだろうかと、第三者までが気になる程のその表情。
「気が付いたようだね。君は僕の土地に流れついて、意識がないから、とりあえずここまで運んだんだ。家の人が心配しているだろう? どこへ連絡すれば……」
 アキラは矢継ぎ早に、用意してあった言葉を少年にかけた。
 だが、少年は怯えたように口は重く、何かを喋ろうとしてはまた口を噤む。根気よく待つアキラに少年は掠れた声で呟いた。
「あっあの……。俺、覚えてない……」
 それが嘘だという事は、彼の表情から読み取れた。もし本当に記憶が無いのなら、こんなに冷静ではいられないだろう。
「名前も?」
「……」
 話したくない事情があるのだろう。細い肩を震わせている、少年の申し訳なさそうな表情から、反対に興味をそそられた。
「持ち物から推測するに、君は上流階級の人間だ。身につけていたものから察するにだけど。上着に進藤ヒカルと縫い付けがあるけど、君の名前だろうね」
 アキラの言葉に、少年……、進藤ヒカルの表情がガラス細工の様に固まり、そしてゆっくりと視線が逸らされる。
 その逸らした視線の先には何が写っているのだろうかとアキラは思う。
「何かの縁だ。記憶が戻って、怪我が治るまで滞在すれば良い」
 興味が湧いた。
 どうして海岸に漂着し、倒れていたのか。どうして記憶を失った振りをして名を伏せるのか。
 本来アキラは他人になど心を砕かないのだが、何故かヒカルが気になった。
「すみません……」
 アキラの申し出に対して承諾の意を示したヒカルに、アキラの口元が綻ぶ。
「僕は塔矢アキラ」
 何故だろうか。今までの苛立った感情が消え、代わりに心踊るような感覚をアキラは覚えていた。
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