夢殿2

 

 喉元にかかる息の擽ったさに、ヒカルの意識が浮上していく。
 起き上がろうとしたが、身体の上に重しが乗ったかのように身動きが取れなかった。
 ぼやけた視界には、見慣れぬ天井と、そして人影。働かない思考を総動員してやっとその人影が自分の上に伸し掛かる芹澤だと気付く。
「……閣下?」
 自分の置かれた情況が飲み込めなくて、ヒカルは戸惑っていた。
 確か、出された飲み物を飲んでいたはずなのに……。何故自分の上に芹澤将軍が居るのだろうか?
「もう目が覚めたのか。流石に良い品じゃなかったか、それとも君が薬に強いか」
 考え込んだのか芹澤の手が止まる。しかし、それも一瞬だけで、芹澤はヒカルの衣服を脱がすべく釦に手をかけた。
「薬って? それになんだよこれは?」
 先程の部屋の長椅子に横たわっている己れに、ヒカルは芹澤の悪意を知った。
 抵抗しようとするのだが、大人の、それも軍人として鍛えた身体とは力差に雲泥の開きがあった。
 芹澤が何をしようとしているのか解らないほどヒカルも世間知らずではない。しかしどうして自分が芹澤の興味の対象となったのかは解らなかった。
 それとも芹澤は無差別で狼藉を働く人物なのか。どちらにしろ身の危険には変わりが無い。
 必死のヒカルに芹澤は初めて心底からの笑みを浮かべた。
「一ヵ月前……。午餐会で君を見た時になんとしてでも手に入れようと心に決めたのだ。私は欲しいと思ったものは必ず手に入れてきた男だ。地位も名声も女も……」
 ぞっとするような芹澤の視線はヒカルの身体を舐め回すかのように移動する。
「おっ俺は男だっ!」
 芹澤の言葉尻をとって、自分は女じゃないと主張してみるが、そんなヒカルの言葉を芹澤は面白そうに聞き流した。
「君には、そう……、性を超越した何かを感じるんだ」
 確かに女顔なのはヒカルも自覚していたが、無意識に人を魅了してやまないという事までは自覚に無い。だからこそ芹澤の行動が信じられなかった。
「由緒正しい家系の華族の俺を……は、辱めるなんてっ。父が知ったら、閣下を社会的に抹殺する事だって出来るんだからなっ! だから……」
 だから今の内に解放しろとヒカルは芹澤を説得にかかる。
 今ならまだ無かった事にしてやるつもりだったが、それでも芹澤が止めないのであれば、どんな手でも使って芹澤に思い知らせてやると心に決めた。
 もちろん父も黙っていないだろう。
 この脅しが効くと思っていたヒカルに芹澤は絶望的な言葉でヒカルを追い詰めた。
「君の父上も御存じなんだよ」
 父がこの事を知っていた……?
「そんな……」
 それ以上はショックで声が出てこなかった。だから父は自分をここに使いに出させたのか? 
「子爵には、事業の融資を申し出た。これがどういう意味か解るかね?」
 まさか、父が自分を売ったとでも言うのか? そんな信じられない考えがヒカルの中に生れる。
「デタラメを言うなっ」
 事実、進藤正夫の興した事業は軌道に乗る以前の問題で、先日も十五銀行へ融資を申し込みに行っていたはずだ。
 だからといって、父がこんな事を許すはずはない。
「嘘じゃない。勿論、大切な御子息がこんな目にあっているとは思わないだろう。話相手にとして君に来てもらいたいと伝えただけだからね」
 こんな状況下で、父は自分を知っていて芹澤の元に寄越したのではない事にヒカルは安堵した。何かあったとしても、父は自分の味方のはずだ。
 芹澤は抵抗の乏しいヒカルの右手を取るとその甲に唇を寄せる。鳥肌が立つような感触がヒカルを苛んだ。
「けれど、到底返済できないだろう負債を抱えた子爵が、融資してやった私を訴えるはずは無いだろうな」
 気味の悪い笑い声とともに、その肉付きの薄い唇がヒカルのそれを塞ぐように近付いてくる。
「やめろってんだ! この変態野郎っ」
 身体を限界にまで捻って、それを頬で受け止めたヒカルは、芹澤の隙をついてその身体の下から抜け出そうとした。
 しかし、そんなヒカルの行動などお見通しだったのか、芹澤は逃げようと背を向けたヒカルの背に竹刀を打ち付けたのだ。
「っ!!」
 その痛みの酷さにヒカルは窓際の机にしがみ付くように自分の身体を支える。
「何も取って食おうとしている訳じゃない。今の痛みに比べれば大したことでもない、父上を困った立場に追い込みたくないだろう?」
「卑怯者!」
 父はどれくらいの負債を抱えているのか、もし自分の所為で融資を断られたなら会社は倒産するのだろうか?
 ヒカルの中で激しい葛藤がなされた。
 そしてのろのろとヒカルは立ち上がり、芹澤へと向き直る。
「……」
 何も言葉は出てこなかった。そこに有ったのは覚悟というよりも諦めかもしれない。
「良い子だ」
 一歩ずつ近付いてくる足音にヒカルは震えあがった。もし机に体重を預けていなければ恐怖で座り込んでいたであろう。
 しかし日本男子として、そんな不様な事は出来ないとヒカルは懸命に耐える。
 肩に手を置かれ引き寄せられるに至って、やはり嫌悪感がヒカルの行動を促した。
 ヒカルを支えたその机は書き物用の机で、そこには便箋やインク壷等があったが、咄嗟に触れたヒカルの手には銀色に輝くペーパーナイフがあったのだ。
 まるで恐怖から抜け出さんとばかりに、無意識にヒカルはそれで空を切った。
 その瞬間嫌な感触が右手に残る。
 スローモーションを見ているかのように、芹澤の身体がゆっくりと倒れる。
 右手のペーパーナイフには真っ赤な血が付着し、ぽたりぽたりと絨毯に染みを作った。
 小さな剣を模したそのペーパーナイフが、ヒカルの罪を嘲笑うかのようにその右手から離れて、倒れた芹澤の元へと転がる。
「うっ……ぐ」
 芹澤の口から押しつぶしたような声が漏れ、それを聞いたヒカルは自分のしでかした事が急に恐ろしくなった。
 正当防衛だと思うが、殺してしまってはそれも過剰防衛であろう。だが自分だけに非があるとは思えない。
 警察……。
 いや、警察にすべてを話したところで信じてもらえるかどうか解らない。
 それに家の名前に傷つける事にもなる。
 死人に口無しではあるが、芹澤家にとっても少年を暴行しようとした上での事件とは表にしたくないはずだ。
 色々と考えながらその思考の迷路に陥って、ヒカルは逃げるように屋敷を飛び出していた。
 どうして良いのか正しい判断が出来ない。父か? 警察か? 
 港へと続く坂道を全速力で駆け抜ける。
 大型客船の汽笛が響き渡って、それに導かれるようにヒカルは船の繋留場へと足を運んだ。
 個人所有の船が、持ち主を待つようにゆらゆらと波に身を任せている。白い船体がヒカルの視界を埋め尽くした。
 ふと、自分がどうしたら良いか脳裏に浮かぶ。
 多分これが一番良い方法じゃないかという誘惑は、その他の可能性を霞ませた。
 青い海と白い波。
 ヒカルは靴と学帽を足元に置くと、勢いをつけてその波間に飛び込んだ。
 沖へ沖へと手足を動かす。
 衣服が水に濡れてヒカルの動きを制約し体力を奪ったが、それも好都合だった。
 このまま海の藻屑となる……。そうすれば真相は闇に葬られるだろう。
 今、自分が考え付く最良の方法……。
 ヒカルは力尽きるまで沖を目指し、そして波は絶望に暮れるヒカルを優しく包み込む。
 群れから逸れたカモメが一羽、上空を飛んでいた。



チャレンジして失敗した……。これが今の心境です。時代は日本の明治から大正の雰囲気を取り入れた、時代考証完全無視の設定です。現代と過去を都合良く足して割ったみたいなものです。全然下調べして書いてないので、その辺りを研究なさった方は笑い流してもらえると助かります。
 そして、アキラ出てませんが、アキヒカです。ハーレクイン系という事なので誰にでもこの先の展開は推理できるでしょうが、心の奥底に閉まっておいてください。あと芹澤ファンの方ごめんなさい。今週のWJを読んで芹澤先生の容姿に惚れました。なんかイメージが……。それにしても趣味に走りすぎてちょっと反省中。


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