急速に押し寄せてきた文明開化から、数十年。 洋館の立ち並ぶ街並は新華族と呼ばれる面々の住まいであり、歴史的には古い公卿華族や大名華族とはその生活ぶりに開きがあった。 進藤ヒカルはそんな豪奢な屋敷を左右に見ながら、父からの託けを遂行すべく緩やかな坂道を上っていく。 今年で16才を数える彼だったが、小柄なせいかその年令以上に幼く見える。 否、それ以上に目を引いたのは前髪が金髪だという事だろうか。 父母ともに生粋の日本人であり、ましてや応仁の乱以前より続く進藤家の血を引く彼に異国の血が入っているはずは無かったが、それでもその姿形から口さがない者も居た。 そして人の目を引いたのは金の前髪だけではなかった。 小さな形の良い顔に、大きすぎるぐらいの瞳。そして小生意気そうな笑みを浮かべる唇。長く伸びた手足もまだまだ華奢で、どれをとっても愛らしいと表現するに相応しい造作をしている。 誰もが一度目にすると、ヒカルはその者にとって忘れられない存在となった。 これがあと数年もすれば男の顔になるのだろうが、今はまだ中性的な雰囲気を纏っている。 そんなヒカルの生れ育った進藤家は数百年もの長い間脈々と受け継がれてきた公卿華族である。 だがその身分はけっして高くなく、明治二年に華族令が発布、施行され、そして今のような身分制度となり正式には進藤家は子爵の位にあった。 しかし長く歴史の裏舞台にいた公卿の大半は裕福とは言い難く、清貧を良しとせざるを得ない財政状態であり、進藤家もまた同じであった。 父の用事でここまで歩いてきたヒカルだが、本来なら歩くには遠すぎる距離であった。 海辺近くの丘陵地からの眺めと潮風が心地よかったので辛うじて騙し騙し歩いたのだがこれが雨や冬場なら途中で座り込んでしまっていただろう。 しかし、五月の風は優しくヒカルの傍を通り過ぎ、汗を拭いながら学帽を脱いでその風に髪をなびかせた。 「まったく、親父も人使い荒いよなぁ。こんな荷物届けろだなんてさ」 風呂敷に包まれたそれが何であるかは解らないが急な言付けにヒカルも戸惑った。しかしその届先が芹澤家と聞き二つ返事で了承したのだ。 『くれぐれも芹澤閣下に失礼の無いようにな』 そう父にきつく言い渡されたのだが、ヒカルの心はそれすら忘れそうになるぐらい高揚していた。 なにしろ、あの芹澤将軍の屋敷に足を踏み入れられるのだ。 年頃の少年にとって海軍のエリートである芹澤将軍は羨望の的であったし、その裕福な暮らしぶりは三流新聞等が取り上げた。 それをこの目で見れるチャンスを逃すなんてヒカルには出来なかったのだ。 「確か、閣下と会ったのは一ヵ月前か……」 父に伴って出掛けた午餐会で初めて実物に会った時のことをヒカルは思い出していた。 背も高く、その体躯は海軍指揮官として相応しく、また高い鼻梁とオールバックに撫で付けた髪型は、彼の青白いともいえる肌の色をさらに際立たせていた。 笑顔など浮かべた事の無いであろう瞳は、どこか擬物を思わせ、その芹澤と挨拶したときに何故か寒々としたものをヒカルは覚えたのだった。 そんな自分の見立てを馬鹿馬鹿しいと思いつつ、ヒカルは手元の地図に目をやる。 「そうさ、閣下だって『車が好きなら見にくると良い』って言ってたじゃないか」 心から追い出す事の出来ない不安をヒカルは無視して、先を急ぐべく歩調を早めたのだった。 程無くして、ヒカルは芹澤の屋敷の居間に通されていた。使用人が仰々しく扉を開け、ヒカルのような子供にすら頭を下げる。 天井が高いため、どこかひんやりとする屋敷の空気は、芹澤のようだとヒカルは評価した。 通された部屋には暖炉が有り、その上には芹澤の軍服姿の肖像画が掛けられている。 また大理石で作られたであろう机の上には葉巻が並べられ、革で作られたと思われる椅子が配置されていた。 窓際には書き物用の机や、大きな青磁の壷がこの部屋を色取っている。 その豪奢な装飾品の数々を見ながらヒカルは感嘆していた。 「よく、来たね」 儀礼的な笑みを浮かべた芹澤が、挨拶と共に部屋へと入ってくる。しかしその瞳には笑みは無い。 「父からの言付けで参りました」 風呂敷を差し出したヒカルは椅子を勧められ、先に芹澤が腰掛けるのを待ってその革の椅子に身を預けた。 「進藤子爵の御好意には感謝する。今日は暑かっただろう。今冷たいものを用意しよう」 緊張で口もきけないヒカルは遠慮も出来ず、その好意を受け取る事となる。 目の前には、見た事も無いような色合いをした飲み物が出されてヒカルは芹澤を上目遣いで盗み見た。 「外国産の飲み物だ。心配せず飲みたまえ」 笑みを浮かべているのだが、それは口元だけで決して目が笑っていない事にヒカルは気が付いた。 違和感……とでも云うのだろうか。 しかし、軍人という職業柄それも仕方ないのかもしれない。自分の父とて、事業を起こしてからというもの、多少変わったではないかとヒカルは思い直した。 グラスに口を付けて恐る恐るその液体を口に運ぶ。 「あっ、結構いけるっ」 黒っぽいその液体は意外にも爽やかな甘味で、喉の乾いていたヒカルはそれを一気に飲み干した。 「……それも、裏ルートでしか手に入らなくてね、しかし私は欲しいものは必ず手に入れてきた」 芹澤の意味不明な言葉を耳にしつつ、ヒカルは意識が遠退くのを感じていた。 しっかりしなければと思いつつも、急速に訪れた睡魔にヒカルはその身を委ねるしか術はなかった……。 |