雪の降る街を 2
待つ時間が普段以上に長く感じられる。けれども決して嫌じゃない。待つ時間が長ければ長いほど想いは深くなるから……。 アキラが地方へと対局に行ってしまって三日。遅くとも今日中には帰ってくるはずと、ヒカルは携帯をチェックした。 しかし、そこには何の連絡も入ってなくてヒカルは少しだけ落ち込む。 「そうだ、迎えに行けばいいじゃん」 送っていった帰り、車をアキラのマンションの駐車場に入れるつもりだったが結局アルファロメオはヒカルの家の裏手にある車庫に納まっていた。 「だって、雪降ってたし、暗いと運転とかヤバイじゃん」 ついでに言うなら道も少し、いやかなり不案内だったのだ。ナビを使えば良いのだろうが、自分の記憶力の素晴らしさを証明したくて頼らずにいたら案の定道を間違えて。 で、腹が立つからそのまま自宅まで帰ったのだ。 自慢じゃないが、地図を見て迷わずに行けた例は数えるぐらいだ。 昔、塔矢の自宅に行ったときも迷ったっけ。などとヒカルは昔の思い出に一人浸った。 幸い、まだ昼間であったし、空港までの道なら自信はある。善は急げ的な思考でヒカルは車のキイを取り上げた。 エンジンをかけた車は息を吹き返したかのようにうなり声をあげる。もちろんもっと静かな車もあるのだろうが、これはそういう仕様になっているらしい。 アキラはペーパードライバーだとヒカルを心配するが、けっして運転が稚拙という訳ではない。 ヒカルは浮き立つ心を沈めるようにハンドルを握ったのだが、ここにきて肝心な事を思い出した。 「塔矢の奴、本当に帰ってくるんだろうな」 今日逢えるかもしれないという事を前提に行動したわけだが、よく考えてみればはっきりとした保障はない。 「俺って……」 余程塔矢に逢いたいんだなぁ、と自分の可愛い行動に照れたのも一瞬で次の瞬間には激しい怒りが沸き起こった。 勿論自分の馬鹿さかげんと、アキラの無連絡にである。 路肩に車を止めて、いざ電話しようと携帯を取り出した瞬間着信音が鳴り響いた。アキラ。と画面に出ていてヒカルは慌てて通話ボタンを押す。 「もしもし、終わったんだろ? いつ帰るんだよ」 不機嫌そうに響くと思っていた自分の声は、遠足を待ちわびる子供のような響きを持っていた。 電話の向こうでアキラの低く耳障りの良い声がする。 『今から帰るから。今夜は逢えるだろう?』 これから飛行機に乗るらしく、騒めきとアナウンスが聞こえてくる。 「うん、まぁね」 今夜どころか、飛行機から降りたらすぐに逢える。 ゲートから出てきて俺を見付けたら塔矢の奴どんな顔するかな? と、考えるだけでヒカルの胸が躍った。 『君の声が聞きたいんだ』 アキラの声がまるで耳元で囁きかけるようでヒカルの背筋が震える。 「声?」 今でも十分に聞いているじゃないかと反論しようとすると、電話の向こうでアキラが小さく笑みを洩らした。 『アノ時の声、だよ』 「セクハラ!」 すぐに切り返してみても、それだけでヒカルの身体が反応してしまう。 怒った振りをして邪険に通話を終了させて、ヒカルは大きく息を吸ってゆっくりと吐いた。 こんな精神状態じゃ安全運転が出来るとは言い兼ねる。 しかしアキラが帰ってきて、そして夜に……、と考えただけで純粋に嬉しくなった。 あの塔矢アキラなのだ。 囲碁界のプリンスと呼ばれ、そして進藤ヒカルの王子様でもある。 「王子様……!?」 そんな自分の寒い考えに及んで、ヒカルは一人、恥ずかしい考えを追い出すかのように左右に頭を振った。 けれどもアキラのプライベートを自分だけが占有していると思うと誇らしくもあり照れくさくもあった。 時間はまだまだ余裕がある。 先日は使い方もあやふやで、結局使えずじまいだったナビの使い方覚えておこうと、ヒカルは電源を入れた。 とりあえず、色々な機能を試してみようと、ヒカルは目的地を選択する。そこには遊園地やレストラン、その他目的地にあわせて表示するらしい機能が有りヒカルは興味深げにボタンを押していった。 そしてプライベート設定されたボタンをヒカルは押してみた。 「えっと、棋院はここだろ? じゃあこれは?」 フラッグは立つものの、それが何かとかどこかとかは表示されていない。その他は自宅だとか実家だとかヒカルとか入力されているのに、である。 駅前の塔矢家経営の碁会所ではない。となると指導碁の先か? いや、それには車を使うことはないから違うであろう。では誰かの家なのか? ここからそんなに離れている場所ではない。 試しに行ってみたとしても、アキラが乗った飛行機が到着するにはまだまだ時間はある。 ヒカルは決心してアクセルを踏んだ。 10分と経たずに到着したその場所は、見てからに高級そうなマンションが林立していて、芸能人なんかも好んで住んでいる場所だった。 フラッグの立った場所がこんな閑静な住宅が立ち並ぶ場所であった事にヒカルは疑問を覚える。 「誰かの家……なんだろうな」 とりあえず路肩に駐車したものの居心地が悪い。つまらない好奇心が、薮から蛇を突き出しそうな感覚。 まだ少し早いけれど、空港でアキラを待とう。 こんな場所に一分たりと居たくない。 そう決意したヒカルは、ノックするように窓を叩かれて、ハッと顔を向けた。 白い指先には真っ赤なマニキュアが丁寧に塗られている。ストレートの長い黒髪が細いウエストを飾り、雪も降ろうかという真冬に似合わないミニスカートにおそらく本物の毛皮のショートコート。 駐車している場所が悪いのかと、ヒカルが窓を開けると同時に鈴を転がすような甘えた女の声がした。 「随分ご無沙汰だったじゃない。私に飽きたと思っていたわ。もちろんそんなお馬鹿さんじゃないと思うけど?」 屈んだ女の胸の谷間がはっきりと見えた。顕らかに挑発しようという意図が丸見えで、女は一呼吸置くとやっと顔を見せる。 まさにふるいつきたくなるような美人だった。 嫌な感覚がヒカルの全身に広がる。 お互いが驚いたような顔を見せあったが先に口を開いたのは女の方だった。 「あら、私ったら。同じ車だったから、人違いだわ。ごめんなさいね」 にっこりと微笑むと女は優雅に歩き去ったが、ヒカルは窓を閉める事も出来ず呆然としていた。 「だっ、誰だよ今の……」 この車はアキラの車であるから、自分が乗っている事自体がイレギュラーなのだ。その辺りから考えて、女は乗っているのがアキラであると推測したのだろう。 もしかして塔矢の過去の女かとヒカルは考えたが、ナビに登録しているってことはまだ続いているのだろう。 ご無沙汰していると女は言ったが、切れているのならナビに入れる必要はない。まだ続いているのだとヒカルは確信していた。 今までアキラに女性関係が無かったと思うほどヒカルは馬鹿ではない。初めての時だって手慣れたようにセックスをした。 しかし過去は過去と、今まで考えもしなかったのだが、目の前に事実があらわれると動揺が胸を侵食した。 終わっているなら良い。 けれど続いているなら? ヒカルの心の中に冷たい雪が降り積もる。 波瀾万丈とは無縁でいたい。平凡に過ごしたいと思っていたけれど……。 足元が崩れていく。 そんな感覚だった……。 |