雨後の月8




 余程心労が溜まっていたのだろうか。泣きながら眠ってしまったヒカルを社はベッドへと運んでやる。丸くなって身を守るように眠りに身を任せるヒカルはとても傷ついているようだった。
 明日から東京で入っている仕事は後援会の関東支部主催のもので、決して蔑ろに出来る訳ではなかったが、このままずっとヒカルの側についてやりたい気持ちが社の中に沸き起こってくる。
 進藤ヒカルという存在はおそらく誰もが魅了されるであろし、自分もまたその一人だという事だ。
 それなのに、塔矢アキラはどんな考えでヒカルと別れたのだろう。こんなにもヒカルを悲しませて。こんなにもヒカルを傷つけて。
 大阪での仲睦まじい様を目の当たりにした社にしてみれば『まさか』という驚きがいつまで経っても覚めやらなかった。
「お節介や、解ってんねんけどなぁ」
 眠ってしまったヒカルの横で碁石を並べながら社は自分の性格に辟易としていた。二人の間を邪魔するつもりは無いし、二人の間を取り持つつもりもなかったがヒカルのこの様子を見過ごす訳にいかなかった。
 自分のスケジュールを考えると、そう窮屈な日程ではなかったし自由な時間もあるだろうから、話を聞くぐらいは出来る。
 社は心を決めるとその日は用意された布団で身を休めるのだった。
 翌朝、ヒカルも照れ臭かったのか、小声で先に眠ってしまった事を詫びただけでアキラの事を持ち出す事はなかったし、社も何も言わなかった。
 他愛もなく取り留めない話をしながら、途中まで一緒に出掛けた社とヒカル。ヒカルも何か仕事があったらしい。
 社も手早く仕事を済ませると、以前に聞いていたマンションへと向かう。ヒカルとアキラが暮らしていたマンション。
 セキュリティーの整ったマンションといえども違法適法は別にして決して入れない訳ではない。特に住人と知り合いであれば暗証番号さえ教えてもらっていればロビーに入るのは容易だ。
 エレベーターを該当の階で降りた社の耳に争う声が届く。聞き覚えのある声。社がそこで見たのは玄関の扉を閉めようとする塔矢アキラだった。
「二度とこないでくれと言わなかったか? 僕は君を招待した覚えはない! 手合いだって出ているし君に関係無い事だ!」
 らしくないほど取り乱したアキラの様子に社は自分の想像が正しくなかった事を知った。ヒカルを無残にも捨てた彼はもっと泰然自若としていると思っていたのだ。
 そしてもっと驚いたのは、アキラが閉じようとする扉の前で必死に縋り付こうとしている越智の姿だった。
「塔矢さんっ」
 扉を叩く様子はさながら修羅場のようで……。目の前で繰り広げられた情況を、驚くなという方が無理だろう。
 閉じられた扉の前で越智はなおも扉を叩こうとしたが、振り上げた手は力なく下ろされた。
「いつまでも進藤の事を引きずるなんて……。でも僕がした事を後悔なんてしない」
 俯きながら悔しそうに呟く越智は、近くに社が居るとは思わなかったのだろう。本音混じりの強がりで自分を励ましているようだった。
「ここって塔矢アキラの部屋やろ」
 社が一歩ずつ近付いても気が付かなかったようだったが、流石に声を掛けられて気が付かないはずはなく、越智は眼鏡を押し上げながら振り返る。
「君には関係ない」
 どうしてこの場所に居るのか。そんな疑問は社も越智も互いに答えを導きだしていた。
 ヒカルやアキラと親しい社が、二人の関係と今の現状を知らないはずはないと越智は考え、社も先程の越智の言葉に自分の探す答えを見付けた気がしたのだった。
「読めたで。お前が裏で糸引いてるんやろ」
 確信はなかったがはったりにはなるだろうと社は越智を威嚇するように見下ろす。鋭い視線と恵まれた体格の社の追及は、越智の動揺を誘った。
 普段なら負けずに視線を返すはずの越智は息を飲み、それ以上の言葉を恐れているように見えた。
 アキラとヒカルの関係を知っていて、なおかつ今の二人の現状を把握しているような越智の言葉。
「図星やな」
 顔を赤くした越智に社は断言し、越智は否定しない。
 話を聞こうと社は越智の腕を掴もうとしたのだが、一瞬早く越智は駆け出していた。偶然に開いたエレベーターに身を滑り込ませるように乗った越智は、何も言わず社の目の前から姿を消したのだった。
「このまま逃げ切れるなんて思うなや」
 社は先に手を打たれる前に棋院へと電話を掛けた。
 棋士どうしであると案外簡単に住所を教えてくれるのは以前でも立証済みだ。なんなら直接聞きに行っても良いと伝えると事務の人は越智の住所と電話番号を復唱までして教えてくれた。
 思い立った事を行動に移さねば気の済まない社は次に越智の住む場所へと向かう。
 以前越智は都内の邸宅に住んでいると耳にした事があった社だったが、教えてもらった住所にそびえ立つのはごく普通のマンションのようであった。几帳面な性格なのか、表札もフルネームで掲げられている。
 電気メーターを見るかぎり中に人が居る様子はなく、社は死角になりそうな場所に蹲ると長期戦を覚悟で越智を待つのだった。






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