雨後の月7




 新幹線を降りた社は、周囲の誰にも悟られないようにほんの少しだけため息をついてみせた。
 たまたま仕事で東京へ行く用事が出来た場合、必ずしている行為とはいえプッシュボタンを押す前にいやな予感がしたのだ。
 脳裏には三日前の電話の内容がまざまざと蘇ってくる。
 携帯電話の番号を最後まで押すと程なくして『社?』というやや高めとも思える声が届く。
 どこかくぐもったような、いつもの冴えの無い声音に多少疑問を感じつつも社は切り出した。
「うん。俺や、清春。今度東京行くし泊めてくれへん?」
 いつでも泊りに来いと言ってくれていたから電話したのだが、ヒカルの様子が少しおかしい。
 そもそも。アキラとヒカルの二人が同居したと聞いて所謂『そういう関係』なのだと気が付いたのは、社自身が、ヒカルの事を憎からず思っていたからなのだが、これは誰にも教えるつもりはない。
 気が付けば異性に抱くべき感情が進藤ヒカルに対して発揮されただけで、社は自分がセクシャルマイノリティであると思った事はないし、アキラとヒカルの事を邪魔しようと考えた事もなかった。
 電話の向こうでは少し困ったようなヒカルの声が社の耳に届く。
「えっと、俺の家で良い?」
 その時に社の直感が危険だと知らしていたのだが、そんな直感を信じるには社もまだ人生経験が浅すぎた。
 教えてもらった都営地下鉄を探し目的の駅に着くと、改札口で待つヒカルと合流する。
 一目瞭然とでもいうのだろうか、顕らかに痩せたヒカルに自分の直感が正しかった事を社は知った。
 今にも倒れそうだと思ったのも強ち間違いではないだろう。おっくうそうに歩く隣でヒカルを盗み見ながら社は確信めいたものを感じていた。
 進藤家へと案内され、母親と挨拶を済ますとヒカルの部屋へと足を踏み入れた。まだ紐解かれていないらしい大きなスポーツバッグが部屋の片隅に放置されている。
 目敏いほうでは無いが、これだけ条件が合致すれば答えは簡単に見つかるというもの。
「なんや、しけた面して……。ちぇっ、勘の良い自分が嫌んなるわ。進藤、お前塔矢ともめてるやろ?」
 そのものずばりの社の言葉にヒカルはビクッと身体を震わせていた。社が指摘した通りもめているだけならまだ良い、それなら微かでも繋がりが期待できるが、別れを告げられたという事は何の接点も無くなるという事だ。
 それでも囲碁があるだけ心の救いになる。勝ち続ければ必ずアキラと対峙する機会に恵まれる。
 対局者同士にしか生まれないあの一種独特の空気は、今までの愛を重ねた日々とは比べものにならないが、それでも碁を打ち続けるかぎり諦めなくても良い。
「元に戻っただけだ」
 ヒカルの言葉は考え抜いた末に導きだした、自分の心を納得させるための呪文なのだろう。
 元に戻るのが当たり前だと言わんばかりのヒカルに社は肩を持って大きく揺さ振りたいという衝動を押さえねばならなかった。先日大阪で会った時はあれほど仲睦まじい様子だったというのに、こうも簡単に元に戻れると言い切れるのかと。
 ヒカルの言い訳がましい様子に社は腹が立って、言わなくても良い言葉が口をついて出た。
「それを世間では別れた言うんやろ?」
 予想以上に冷たく響いた言葉に、ヒカルは傷ついた目を向けるとそっと呟く。
「社は、意地悪だ」
 ヒカルの捨てられた子猫のような潤んだ瞳に、社の口から思わず言葉が突いて出る。思ってはいても言うつもりの無かった言葉……。
「なぁ、あんな奴やめて俺にし、俺やったら大事にしたる。あいつは囲碁界のサラブレットやし、世間を裏ぎることはできん」
 そのものズバリの社の言葉にヒカルは諦めたように肩を落とす。第三者の言葉は時に残酷なものだ。
 今まで夢の中の世界に居たことを思い出させ、現実に引き戻された気分だった。
 社はヒカルの肩を抱き寄せると、優しく、これ以上なく優しく抱き寄せる。
「進藤があいつを好きやいうんやったらそれでかまへんから。俺は喜んで身代わりになったる」
 慰めるようにキスしたい衝動を押さえ、社はヒカルの男にしては勿体なく思える震える手を包み込んだ。
 今まで堪えていたのだろうか、ヒカルの心情を吐露するかのように大粒の涙が零れ落ちていく。
「なんでこんなにうまく行かないんだろ。ずっと好きだったんだ。あいつの碁もあいつの事も。望んだ関係だったのに。終わりがあるなんて考えてなかった。解ってたのに、忘れてたなんてバカだ」
 最初から物事には終わりがあるのだと知っていたのにと嘆くヒカルの脳裏には到底消えそうに無いはずだった佐為の事が蘇っていた。
 突然春風に吹かれたかのように姿を消した佐為に、永遠に続く物事は無く、人との別れはつきものだと教えられたのに。
 自分を慰めてくれようとしている社の気持ちはよく解る。それだけ自分は惨めな存在なのだろう。
 突然の別れ。
 それが今更になって痛みを取り戻したようにヒカルを痛め付けた。
 アキラの温もりを記憶の中に埋もれるように忘れてしまっても、今の痛みは一生消えるものではないのだろう。
 出来るなら、今すべての記憶を封印してしまいたかった。愛しい思い出も辛い思い出も。
 社の手が救いの手なら。新しい記憶で過去を塗り込めて今の痛みが忘れられるのなら。

 ヒカルは黙って目を閉じた。






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