雨後の月6




 口実だった。自分の行いを正当化したいがために、ヒカルにこのマンションを処分すると嘘をついたのだ。
 アキラはガランとした空間を見つめた。人一人と僅かな荷物がなくなってしまっただけなのに、とてつもなく広く感じられる。
 この家にいつか世間体を保つため、うわべだけの女を住まわすのだろうか。アキラはそんな考えを否定するように首を左右に振った。
 ここはヒカルとの思い出の場所だから、それを汚すような事はしたくない。
 初めてヒカルを抱き、そして重ねた愛ある日々。今、ヒカルは出ていってしまったけれどその思い出は消せるものではないし、誰にも消されたくない。
 いわばこの場所は自分にとって聖域なのだ。
 どれぐらい、何もなくなってしまった空間を見つめていただろう。
 玄関の扉を閉め忘れていたのだろうか、戸惑うようにノブが回され、そっと扉が開く。
 その微かな音にアキラは我に返ると慌てて玄関へと向う。ヒカルであってほしいと思いつつ、手酷く拒絶した自分の元には返ってこないだろうという諦めが交錯していた。
 その場に立っていたのは、ヒカルよりもまだ小柄な越智だった。一瞬躊躇する素振りを見せた彼は、真っすぐに顔を上げると靴を脱ぎ、一歩を踏み出した。
「ふーん、進藤は出て行ったんですね」
 越智は部屋を見渡すと、どこか安堵したような口調でアキラを仰ぎ見る。
「ここには来ないでくれ」
 まるで異質なものを見るかのようにアキラの形の良い眉が寄せられた。
 来訪者がヒカルであって欲しいという淡い期待が裏切られ、またそんな馬鹿げた期待を抱いた自分を愚かだと思いつつ、苛立ちを隠しきれないように言葉を搾り出した。
「冷たい事をいうんですね、まぁ貴方らしいですけれどね」
 越智の言葉を右から左へと聞き流しながらアキラはこれで良いのだと自分の心の平穏を取り戻さんと己れを慰めていた。
 初めに強姦まがいにヒカルを手に入れた自分も激しい後悔の念に苛まれたが、それでも愛する事を止めることは出来なかった。
 棋院で待ち伏せたり、それ以前は学校にも押し掛けたが今思い起せば自分がなんと考え無しに突っ走っていた事かと悔やまれる。
 男同士であるという葛藤は、進藤ヒカルという太陽に目が眩んだ時点で無きに等しかったのかもしれない。
 それでも己れの欲望を押さえきれなかったという事を考えるなら、本当に自分は浅はかだった。
 勘の良い人間は気付いていただろうし、気付かれた所で隠すつもりもないと思っていたがそれは大きな間違いだったのだ。
 プロ棋士としての狭い世界で噂がどれほどの致命傷か解らないはずはなかったというのに。
 第一に可処分所得の多い男同士が何を好き好んで同居するだろうか。こんな時女同士だと誰も不思議には思わないのに、男同士となると途端に下世話な話になる。
 ヒカルの事を考えるなら別れたほうが良い。
 先日の越智の言葉をずっと考え続けて出した答え。ヒカルと別れてくれと言う越智の切実な眼差しを哀れと思いつつも、無下に出来なかったのは外れた道を軌道修正するべきだと、身を切られるような思いで決心したからだ。
 もし、越智が自分を訴えたとして傷つくのは、何より愛しいヒカルとそして周囲の人々であろう。
 こんな選択をした自分をきっとヒカルはひどい奴だと思うだろう。しかし立ち直るまでにどれほど涙を流そうが、世間に公表された後に無理矢理別れさせられるより、恨みは残れども後腐れはなくなるだろう。
 自分の取った冷たい仕打ちを恨んでくれればそれで良い。ヒカルの事を誤解しその魅力に抵抗できなかった自分がすべて悪いのだ。
 目の前で所在無さげに立ち尽くす越智が切っ掛けではあったが、結局判断を下したのは自分なのだ。
「そんなにやつれる程、進藤が好きですか? 進藤が忘れられませんか?」
 アキラらしくない虚ろな色のある瞳。心なしか頬に今まで無かった影が落ちている。誰が見てもやつれたのだと思うだろう。
 見たくないというように、越智から視線を逸らしたままのアキラは声を振り絞る。
「忘れない、忘れられる訳がない」
 アキラにとってヒカルはまさに太陽だった。その笑顔に癒され、その笑顔を愛して。周りが見れないぐらいに耽溺したと言っても過言ではない。
 手放す決意をしたのは、ただ偏にヒカルの事をおもんばかっての事なのだ。傷つけた代償に自分は決してヒカル以外を愛する事はないだろう。
「貴方にとっても、進藤にとっても、最も良い判断だと解る日が来るでしょう」
 知ったような口を利く越智をアキラが睨み付けると、小さな小動物のように身体を強ばらせた。
「そんな日は一生必要ない。進藤を傷つけた痛みを僕は一生背負うし、背負い続ける」
 厳しいまでの口調で断言するアキラを見つめる越智の瞳はどこか物悲しさがあったが、アキラはそれには気付かない。
「さぁ出ていってくれ、顔も見たくない」
 年令以上に小柄な越智を追い出すことは造作もない。未発達なその肩を力任せに掴むと玄関へと押しやった。
 アキラの想像以上に強い力は怒りも手伝っての事なのかもしれないが、越智はその痛みに従わざるをえなかった。
 それでも目一杯には強がってみせる。
「乱暴しないでください」
 だが、玄関は越智の目の前で無情にも閉じられる。それはまるでアキラの心の扉のように越智の目の前で閉まったのだ。
 アキラは決して自分を受け入れる事は無いだろうと越智も理性では理解しつつも、感情はその通りではなかった。
 越智は鼻梁からずれた眼鏡を直そうともせずにただ立ち尽くしていた。






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