雨後の月5




 手合いはさぼりたくなかった。
 けれど部屋から出ると、この場所が煙のように消えてしまうんじゃないかと不安になって一歩たりと動けなくなっていたのだ。
 考え抜いた結果、俺は棋院に電話をしていた。
 今日の手合いは何かの予選だったはずだが例え打ったとしても、まともな碁になりそうにはなかった。
 それでも理性はこんな事をすべきじゃないと解っていた。
 けれども、もし自分が居ない間に塔矢が帰ってくるような事があれば、折角の決心が揺らいでしまうかもしれない。
 もし塔矢が帰ってくるとしたら、俺が手合いで居ない日。つまり今日の可能性が高い。
 静寂の中で膝を抱いたまま、部屋の片隅にある碁盤を見つめる。デジタル時計の表示が普段以上にゆっくりと変わっていく。
 ガチャン……。
 いつだって騒々しい俺とは大違い。まるで作法どおりにドアを閉める音が静寂の空間を壊す。
 取り乱したくなくて、心の中で10を数えてからリビングへと顔を出すと、案の定そこにはアキラが立っていた。
「居たのか」
 心なしか顔が痩せたような気がするがそれでも端正な顔に変わりはない。もう少し動揺するかと思ったが、アキラの表情からは何も読み取れなかった。
「……どこに行ってるんだよ、全然帰ってこなくってさ」
 考えていたよりもその言葉はアキラを詰るような響きを持っていた。ごく軽く、サラリと聞ければ良いのに。
「実家にいるよ。少し考え事をしたくてね」
 心臓がドクンと跳ねた。
 何を考えてるって?
 まさか……。
 嫌な予感がして、それ以上アキラの言葉を聞きたくはなかった。回れ右をして逃げ出したかった。
 だが身体は石のように動かなかったのだ。
 そしてアキラの言葉が俺の心臓を貫く。
「ここを……。処分しようと思っている」
 いくらバカでもその言葉の真意を読み取れない奴はいないだろう。
「つまり出ていけって事だよな」
 精一杯強がってアキラを睨み付けるが、らしくない事にアキラはその視線を逸らしたのだ。
 きっと後ろめたいのだろう。
 俺に飽きたって事を言い出せず逃げてたのか?
 そんなのお前らしくないよ。でもそんなお前にしたのは……、つまり俺って事じゃないか。
 いつだったかお前言ってたよな。俺は無意識に男を誘ってるって。今まさにそのとおりだと思うよ。
 だって俺が居なけりゃ、あの塔矢アキラが『男同士』なんて思いも付かなかっただろう。
 俺がお前の道を誤らせたのなら、元に戻すのは当たり前。解放してやるよ。後ろめたさなんて感じられないぐらいに明るく笑ってやる。
「そっか。解った、出てくよ。荷物少ないしさ、多分明後日には出れるぜ」
 別にそれが何の苦でも無いと言葉の端々に響かせて笑みを作ってみせた。
 未練とか絶望とか負の感情を全て飲み込んだ笑み。
 何年かすれば今の二人の関係も風化して『あぁ、寄り道したっけ』なんてほんの少しの照れ臭さで思い返せる時も来るだろう。
 だけど今は違う。
 こんなにも痛い。
 こんなにも心が痛い。
 捨てないでくれって女のように縋り付けたらどれだけ気も休まるだろう。だけど俺は男でアキラを引き止める権利は無い。
 だからせめて自分のプライドだけでも守ろうと思う。
 毅然とした態度で、後腐れ無く、そして愛しい人に疎ましがられないように。
 明るく。
 強く。
 自分の足で立つ。
 それでもこれ以上アキラの顔を見るのが辛くて、荷物の整理を理由に背を向けた。
 少し前なら追い掛けてくれたのに、今は違う。ドアに凭れるように座り込んだ俺は、弁解一つ無いアキラが悲しかった。
 ずっとアキラという美しい存在を愛していた。
 愛されていないと思い込んでいた時でも、身体を求められるだけで嬉しかった。
 しかしアキラは顔も見たくないぐらいに自分の事を嫌いになったのだろう。もしくは飽きたのか……。
 繋ぎ止めておく術がないのなら、みっともない真似はしない。
 再度決意して俺は立ち上がる。出ると決めたら一刻でも早く出てやろう。アキラに煩わしい思いはさせたくない。
 いつのまにか、部屋には静寂が戻っていた。
 少し前まで温かいと思っていたこの場所のなんと冷たい事だろうか……。二人で暮らした空間を見渡して。
 初めて涙が一粒だけ頬を伝い落ちた……。








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