雨後の月2




 以前とはすっかり違ってしまった自分の行動を反省すべく、アキラは実家に向けて車を走らせる。
 今日は研究会に顔を出して、そして碁会所にも顔を出すつもりだった。
 こんな時、忙しかったという便利な言葉が有難い。おそらく大半の人間はそれを信じてくれるだろう。
 実家の裏口にある車庫は六台ぐらいを優に停められるスペースがある。全自動のシャッターを上げると、そこには緒方の新車が堂々と居座っていた。
 車で来るのはごく限られているが、現在三冠の緒方の車などは指定席だとばかりに存在を主張している。
 まるで持ち主のようだと思いながら、アキラは裏口の扉を開けた。
「あら、アキラさん?」
 台所に立つ母親に真っ先に声を掛けようとしたが、先制されてアキラはただ頷き返す。
「ちょうど、良かったわ。そろそろお酒が切れる頃なのよ。悪いけれど、奥の冷蔵庫からビール持っていってくださいな」
 門下の者が昇段の度にこれですもの、大変だわ。などと明子は呟きながらも楽しそうに台所で腕を奮っていた。
 以上の事から、アキラは『あぁまたか』とばかりに眉目を寄せる。
 まだ門下の人間が少なかった頃から、誰かが昇段したりリーグ入りしたりと、何か晴やかな事柄があると、お祝いとばかりに宴会が催されていた。
 勿論自分がプロになった時も大変だった。厳格に見えて、実は息子自慢な塔矢行洋は、嬉しさのあまり一晩中飲み明かしたらしい。
 もっとも今は病気のこともあり多少は控えてはいるが、他人からみれば控えてるとは言い難いものがあった。
 そんな事を考えつつもアキラは母に言われたとおりに瓶ビールをケースに移して部屋へと運ぶ。
 障子を開けると、想像したとおりの様相が繰り広げられていた。
「久しぶりじゃないか、アキラくん。遅れてきたらまずこれだぞ」
 と、どんな時も白いスーツ姿の兄弟子がアキラの手にコップを持たせて、そこへビールをこぼれんばかりに注ぎ入れた。
「今日は……、何時ごろからこれですか?」
 アキラが横にいた芦原に尋ねるが、彼はすでに出来上がっていたらしく、呂律の回らない舌でなにやら叫びだしてしまう。その奇行に、アキラは救いを求めるように緒方を見るが彼もまた泥酔の域に達していた。
 まともな会話を求めてアキラが周りを見渡すと越智と視線が合った。
「僕もさっき着いたばかりですが、朝かららしいですよ、これ」
 肩を竦めてみせるがその手にはちゃっかりコップが握られている。しかしどうやらジュースか烏龍茶らしく顔色一つ変わっていない。
「誰かの昇段祝いだと言ってましたが……、これも付き合いってやつですね」
 誰が昇段しようと関係ないのだと言いたげに、越智はコップの中身を一気に飲み干した。
 この場に居るのは、塔矢門下の研究会に顔を出せるようにしてくれた緒方の顔を立てるためだと言わんばかり彼。
 久しぶりに研究会に顔を出そうと思ったのはまだ良いとして、連絡の一つでも入れておけば良かったとアキラはため息を吐いた。
 この様子だと何時まで続くか解らない。
『進藤に電話しなければ……』
 不審を抱かれぬよう、おもむろにアキラは立ち上がる。今日は帰れないと連絡しなければきっと心配するだろう。
 携帯電話がシャツの胸ポケットにある事を無意識に確かめつつアキラは部屋を出る。
 一つ角を曲がって、昔のままの自室まで来るとアキラは通話ボタンに手を掛けた。
「進藤? いや、違うよ。ちょっと家に寄ったら……。うん、そう。ごめん、今夜はこっちに泊まるから」
「馬鹿だな。君以外に目移りなんかしないよ。疑うなら家に電話掛けてくれば? 解ってる、明日は早く帰るから。うん、愛してるよ」
 拗ねるヒカルをなんとか宥めて、アキラは胸を撫で下ろしていた。事前に解っている予定ならそうも拗ねる訳はないのだが、今回は突然の事なのでかなり御冠に違いない。
 『じゃあ、和谷と夕食行ってこようかなー』なんて返したヒカルの可愛い事と言ったらどうだろう。
 電話口の向こうで、大きな瞳に涙を浮かべているのではないかと思うだけでアキラは幸せな気分になるのだった。
 さて、次はあの修羅場に近い宴会を乗り切るだけだと部屋を出たアキラは、もうすぐで息が止まるかという体験をする事になる。
 障子を開けたその場所に立ち竦む越智の存在は、会話を聞かれたかもしれないというだけでアキラの心臓を凍らせるのには充分だったのだ。
 誤魔化すべきかと迷っているうちにアキラが受けた先制攻撃。
「……、一局どうかと思ったんですが。お熱いことで」
 眼鏡かけなおす仕草が『非難』しているように感じられる。
「別に……」
 慌てて否定しようとしても、それ以上の言葉が出てこない。
「若先生の恋人なんですから、さぞお可愛らしいんでしょうね」
 一体どこから聞いていたのだろうか? 後援会の人々が言う『若先生』と敢えて使うのは嫌味のつもりなのだろうか?
 初めから聞かれていたのか、最後だけなのか。アキラには判断がつかない。
 あいまいに誤魔化したまま宴会の席に戻ったアキラは、越智の視線に居たたまれなさを感じ、その胸の凝りを押しながすように杯を傾けた。
 ひたすら傾け続けたのだった。







NEXT