雨後の月11




『あなたを騙していました』
 電話の向こうの声が震えていたのは気のせいではないのかもしれないが、アキラは他人を思いやる気持ちを無くしていた。
 何もなかったのだと打ち明ける越智がもし目の前にいたら、アキラは分別無く怒りに任せて彼を殴っていたかもしれない。
 ヒカルを裏切っていないと自信はあったが、裏切ってしまったのではないかと揺らいだのは確かだ。
 越智の言葉を信じた訳ではなかったが、その口車に乗ったのは自分。ヒカルを傷つけたのも張本人は自分なのだと思うと、皮肉めいた笑みが口の端に浮かんでいた。
 別れたのは二人の事を、ヒカルの事を考えたからだ。始まりから誤ってしまった男同士という関係を清算すべきだと考えたからだ。
 けれども、こんなに好きなのにどうして別れなければならないのだろう。
 別れるのが二人のためなのだとしたら、今の自分が惨めで辛い思いをするのはどうしてなのだろう。
 二つの歯車が狂っただけなのに、運命のすべて狂ってしまったかのような絶望感と虚無感。周囲への発覚を恐れ、二人の未来に恐れたのは誰でもない自分自身だというのに。
 今更何をしようというのだろう。
 今更ヒカルに会ってどうしようというのだろう。
 しかし、心はヒカルを求めていた。切ないぐらいに求めていた。
 越智の言葉の呪縛から逃れただけなのに、ヒカルを解放すると決めた己れの戒めをもう破ろうとしている。
 どんなに忘れようと努力しても消せなかったヒカルという太陽を、もう一度手中にするという誘惑に……。



 棋院の前の緩い坂道。少し汗ばむ時期になってはいたが車の中では微塵にも不快感は感じられない。不快があるとすれば己れの内にある煩悶か。
 ヒカルと話をしたくても携帯電話は着信拒否、もちろん家の一般電話でも取り次いでもらえず、あげくの果てには携帯のメールすら着信拒否となっていた。
 アキラは数日間悩み続けた結果、この場所でヒカルを捕まえようと思い立ち、行動に出た。
 今になってどんな言葉をかけるべきなのか適切な言葉が見つからなかったが、もう一度ヒカルの手を掴まなければならないということだけははっきりしていたからだ。
 考えられる最大の手段……。
 棋院で行なわれるという森下九段の研究会。ヒカルは欠かさず顔を出していたから、今日なら必ず会えるだろう。
 車中で待ちつつ小一時間程が経過しただろうか、アキラの視界が鮮やかな金髪を捉えていた。
 アキラに待ち伏せされているとは知らないヒカルがいつものデイバックを背に棋院を出て歩き始める。
 都合良くヒカルは一人だったのでアキラは車を降りて背後から近付く。少しずつ怪しまれないように距離を縮め、そしてヒカルの左肘を掴むと強引に立ち止まらせた。
 金色の髪がふわりと揺れてアキラの目の前で踊る。
「塔矢……」
 次の瞬間、ヒカルは逃げだそうとアキラに捕まれた腕を大きく上下に振った。しかし利き腕でないためかアキラに力及ばず、二人は無言でその場に立ちすくむ。



 アキラの真剣な表情とその真摯な眼差しにヒカル思わず胸が熱くなった。もう自分の物ではなくなった美しいその存在。
 絹糸のような髪が揺れて、それが乱れる時の事を思い出してしまい、ヒカルはそっと目を逸らした。
 掴まれた左の肘が今になって痛みを訴える。
 その痛みに一瞬眉を寄せたのを読まれたのか心持ちアキラの手が緩んだようだった。
「話があるんだ、進藤。……いや、違うな。話を聞いてほしいんだ」
 搾り出すような言葉はアキラがずっとその言葉を口にしたくて仕方なかったと思わせるのに充分すぎる程だった。
 だが、何を聞けというのだろう。
 咄嗟に思いついたのは別れの理由だった。
 マンションを処分するからと、出ていくのが当たり前だと、別れを言外に隠した言葉以外にどんな言葉が必要だというのだろうか。
 しかし四角張ったアキラの事だからそれを伝えなければならないと考えたのかもしれない。
 それ以外には思いつきもしないからこそ、何も聞きたくないというのに。
「なんだよ。今更話し掛けるなよ……。単なる知り合い同士がこれ以上何を話す事があるんだよ」
 愛し合った恋人同士ではなく、ただの知り合いになったのだ。友人でも無く、ただの知り合いに。
 ちゃんと事実は受け入れている。みっともない真似だってしていない。これ以上話す事はないだろうにアキラは思い詰めた表情で自分を見つめていた。
「怒っているのか?」
 アキラにそう問われ首を左右に振る。
 怒るのも悲しむのも、自分にそんな資格はない。いつか別れのある関係に、一々振り回されるのにも疲れた。
 ただアキラの口から何も聞きたくないだけなのに、目の前の美丈夫は逃がさないとばかりに肘を掴んでいる。
 強引に振り解けないのは、自分からはアキラから逃れられないのだと気が付いて、思わず溜め息が漏れた。
「全然怒ってねーよ。お前だって当たり前の事しただけじゃん。今までがおかしかったんだよ」
 ライバルだった関係を人目を憚る関係にしたのは自分の意志だった。突然好きだと気が付いて、求められるままに身体を重ねて、少しの誤解はあったけれど結果的に楽しい日々を過ごしてきた。
 ある日、アキラが帰ってこなくなって不思議かつ淋しく思っている間にあの言葉があったのだ。
 遠回しな別れの言葉……。
 今になってやっと、今までがおかしくてアキラの選んだ行動はおかしくない、責めるべきものではないと納得できたというのに。
「じゃあな、俺帰るから」
 一瞬の隙に手を振り払う。一刻も早くこの場から立ち去らないといけない。未練がましくアキラの側に居てはいけないとヒカルは己れに言聞かせていた。
 何故ならこれ以上アキラの顔を見ていると、言ってはならない言葉が出てしまいそうになるからだ。
 プライドを捨て迷惑も顧みずに、もう一度やり直したいと言ってしまいそうになる。
 その言葉をアキラが聞いたならきっと眉を顰めて不快感を表すだろう。そんな事に耐えられはしないから、ヒカルは一刻も早く立ち去りたかった……。



 逃げ腰のヒカルに自分がどれだけひどい仕打ちをしたのか、心を傷つけ踏み付けるような事をしたのかをアキラは自覚した。
 一方的な別れを黙って受け入れたのは、その実ヒカルの方が望んでいた事なのではないかとも思えてしまうほどに。
 だから今もストーカーまがいの自分を欝陶しく感じ、心底迷惑そうな態度を取るのではではないだろうか。
 ヒカルの仕草の一つ一つから、自分はもう太陽のような輝く笑顔を目にする資格が無いのかもしれないとアキラは感じていた。
「……僕はいつだって君を振り回して、そして悲しませているんだね」
 アキラは自分でその言葉を言いながら笑ってしまいそうになった。振り回すなどという生易しいものじゃなく、人生を狂わせたと言っても過言じゃないというのに。
 恨まれるのが当然の行動をしたのに、今もまた自分のエゴを押し通そうとしている。
 諦めるのだと何度思っても、気が付けばこうやって追い掛けているなんて。自分はどこかおかしいのかもしれないと思いながらアキラはヒカルを見つめ続けた。
「解ってるなら、これ以上追い打ちかけるなよ。この方が良いんだよ、お前は正しい選択をした」
 ヒカルが言うように、この方が良い、別れた方が良いというのは、今までが間違っていたという事なのだろうか。
 確かに行動は常識的に間違っていたかもしれない。しかし心は幸福感で満たされていたはずだ。
 ヒカルの言葉が痛かったが、それと同時に一条の光がアキラの心に差し込んだ。啓示ともいうべき一つの事実……。
 それは愛と形容される想い。
 諦めようと思っても、それが良い方法だと解っていても出来ないのは、現在進行形でヒカルを愛しているからなのだ。
 今になってアキラは越智の想いが理解出来た。それは自分もまた愛という名のエゴをヒカルに突き付けているからかもしれない。
 結果的に一度はヒカルを諦めようと心ない言葉で傷つけもしたが、今思うと別れるという事は始めから出来もしない相談だったのだ。
 別れる事が正しい選択だとヒカルは言うが、今ははっきり違うと断言できる。
「……正しいとか正しくないとか、それは一体誰の判断なんだ? 他人? 世間? 僕が正しいと思うのはこの手を離さない事だけだ」
 どうして他人の目を気にする必要があったのだろう。自分が他人にとって目障りなら死んでやるのか?
 違う。そうではない。人は多かれ少なかれ人に迷惑をかけて生きるだろう。それは決してまったく無くなる訳ではなく、特に自分達の恋愛に関してどうして他人の意向を気にせねばならないのだろう。
 そんな簡単な事を忘れていたなんて……。つくづく自分という男はどこまでも愚か者なのだろうとアキラは情けない思いで一杯だった。
「車、乗ってくれないか?」
 この申し出にヒカルが拒否する事も考えたが、黙って助手席に座るヒカルにアキラはほんの少しだけ安堵した。
 どれだけ謝っても許してもらえないかもしれないし、結果的に別れる事になるかもしれない。
 しかし、行動しないで後悔する事だけはしたくなかった。







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