雨後の月12




 渋滞を避けるように首都高速を走らせる。こんな時カーナビは便利だ。
 二人きりの車中、真っ赤なスポーツカーのアルファロメオ。ほんの少し前の事なのに、初めてこの車に乗った時の事をヒカルは思い出した。
「なんか前にもこんな感じだったな」
 運転するアキラの横顔を見ながらヒカルはポツリとこぼす。瑞々しい生命力に溢れたアキラ。その眼差しの力強さは、人並み以上の美しさを際立たせる力があった。
 今は運転に集中するためにアキラは前を向いたままだったが、何故かじっと見つめられているような錯覚がした。
「進藤は、痩せたね……」
 標準体型より細身であるヒカルの頬から、やや丸みが取れているのをアキラは見逃さなかったらしい。間髪入れずに口にした言葉は懐かしむ以上の響きが隠されていた。
「そう言うお前もだ」
 よくみれば万全の顔色ではなく、顎のラインがよりシャープになった気もしたが、何一つ美しさは損なわれていなかった。
 自分が一番好きな存在。
 もう傷つきたくないからアキラには関わりたくないと思ったが、拒否せず車に乗ってしまったのはアキラの真剣な態度を信じたからだった。
 女々しくアキラに泣き付いてしまいそうになる自分を殺してまでも、アキラを愛した最後の思い出に話を聞くのも良いかと半ば自暴自棄に思ったのだ。
 たとえ傷つけられても、きっとアキラを許せるだろうという自信があった。誰よりも愛しいアキラならきっと……。
 すっかり暗くなり街のネオンと前を走る車のテールランプを、認識する事無くヒカルは視界に収める。
 少しの無言の後アキラの左手が、所在無げに置かれていたヒカルの右手をそっと包み込むように握ってくる。
「っ!」
 温かいアキラの手。
 ヒカルの右手の甲に乗せられたアキラの温かい掌から伝わってくる感情。それは拒絶や嫌悪とは正反対のもので……。
 言葉よりも、肌の……、身体の方が正直だったという事だろう。
 その瞬間ヒカルにはアキラが何を考えて、自分を誘ったのか解ってしまったのだ。
 右手に温もりを感じながら、ヒカルは嬉しさのあまりアキラに抱きつきたくなるのを必死に我慢せねばならなかった。
 おそらくそれは、決して自分の早とちり等ではないだろう。
 あの時。別れを切り出された瞬間、プライドを捨ててでも強引に身体を重ねていればここまで二人の関係が拗れる事も無かったのかもしれない。
 なぜなら、言葉ではどんなにつれなく別れを告げようとも、身体を触れ合えばそれが嘘だと解ったはずだから……。
 そんなヒカルの考えを察したのかようやくアキラが切り出した。
「君は僕を愚かだと思うだろうけれど、僕は君無しではまともに呼吸すら出来ないんだ」
 アキラの言葉はヒカルの怖れていた別れの言葉でなく、望んでいた想像どおりの言葉であった事にヒカルは生気を取り戻した気分だった。
 しかし、嬉しい反面、いまさら何を言うのだという反発がヒカルの口調を少し意地悪くする。
「それは和解したいって事?」
「許されるなら。君を傷つけた僕が許されるなら」
 全身全霊でアキラが自分を必要としている事が伝わってくるが、それでは何故別れる等という考えに及んだのかと腹も立つ。
 自分がこんなにもアキラの事を好きなのに、アキラはいつでも別れられるのかとも思うとヒカルは素直になれなかった。
 けれどここで無駄な意地を張ってアキラを永遠に失う事は出来なかった。物分かりの良いフリをして、言われるがままに捨てられたりするのはもう止めるのだ。
 今度、もし何かあった時にはアキラを殴ってでも本音を吐かせてやるのだとヒカルは心に決める。
「もう二度としないと誓えよ」
 話し合いもせず、お互いに納得もせずに別れるような愚行を二度と行なわないとアキラが誓うと、ダッシュボードの中から小さな箱を取り出してヒカルの膝に乗せた。
「これ。僕と結婚してほしい」
 アキラの照れを含んだ言葉の意味をヒカルが理解したのは、その箱の中身が顕らかにマリッジリングと呼ばれるシンプルなプラチナの指輪だったからだ。
 それも仲良く二つ並んでいて、ヒカルからは思わず笑みがこぼれた。
 少しサイズの大きい指輪。サイズなんて知らなかっただろうから、自分の手を基準に購入したのだろう。
 即席で用意したのか指輪の裏には何も記されてもいない。
 一体どんな顔をしてこれを購入したのか、ヒカルは横顔のアキラ穴も開かんばかりに見つめた。
「養子縁組って知ってるかい? もう二度と離れないように。戸籍上では親子になるけれど、籍を入れて塔矢ヒカルにならないか」
 法的な結びつきのない自分達の事をアキラなりに考えたのだろう。お約束だけれども養子縁組というのは、同性同士で結び得る最大の法的処置なのかもしれない。
「でも、そんな簡単じゃないだろ」
 第一、そんな事をすれば自分達の両親を驚かせる事になってしまう。
 戸籍を少し弄ったくらいですぐにはばれないだろうし、日常生活でも通称名は使用可能だ。
 ヒカルとて考えなかったと言えば嘘になる。法的に二人の関係を永遠に止めておきたいと思った事は確かだ。
 だがアキラの申し出を承諾するのは流石のヒカルも躊躇せざるを得なかった。何故なら真実を知った時の両親達、そして周囲の人々の気持ちを考えると二の足を踏んでしまうからだ。
 そしてもう一つ重大な落し穴があった。
「俺達の事、塔矢がそこまで考えてくれてて嬉しいけど。……養子縁組でお前の籍に入るのは無理だ」
 六法全書にもある民法の中でも家族法と呼ばれる部分に養子に関係する部分があるが、法律関係に明るい棋士のとある人と話している時に聞いて愕然としたのだ。
 ヒカルはそれ以上続けられなくて口を噤む。
「……何故だ? そんな覚悟は無いとでも?」
 アキラも自分が考えられる最大の行為だと思っていただけに、ヒカルに拒絶されて少なからずショックを受けたようだった。
 そんなアキラにヒカルは明るく笑いかける。
「知ってる? 俺の方が年上だから、子として籍には入れねーんだぜ? だからお前が進藤アキラになれよ」
 とある棋士が、『同じ日、同じ時間に生まれた人間が養子縁組する場合はどうするのか』法律の落し穴じゃないか? と笑い話的に話していたのをヒカルは覚えていたのだ。
 重大な落し穴。それは進藤アキラは可能でも塔矢ヒカルというのは、義兄弟としない限り無理な相談なのだという事だった。。
 散々自分を振り回したアキラに意趣返しとも言うべき、ちょっとした意地悪が成功して、ヒカルは今までの胸の凝りが取れた思いがしていた。
 クスクスと笑いを堪えるヒカルの隣でアキラは無造作に髪を掻き上げた。
「参ったな……。でも本当は籍なんてどうでも良いんだ。君を拘束する術ならなんでもするつもりだから」
 アキラの告白にヒカルは小さな声で応じる。
「じゃあさ、もう迷うなよ」
 自分の今の気持ちを信じ、そして偽る事なく歩んでいこう。そうアキラに告げるとヒカルは照れたように窓の外へと視線を移した。
「あぁ。もう惑わされたりもしないつもりだ」
 発端は些細な嘘を鵜呑みにした事、そして要らぬ判断を勝手にしてしまった事……。もう二度と同じ轍は踏むまいとアキラは決心はしたが、ふと重大な事を思い出す。
「ところで社が君の家にいるって聞いたんだけど?」
 越智の電話で全てが嘘だったと、前言撤回すると告げられて、安堵と怒りとを綯い交ぜにしつつ取り敢えず電話を切ろうとした瞬間、聞き慣れた大阪弁が耳に届いたのだ。
 不穏な含みのある言葉に、アキラが後押しされたのは間違いない。ヒカルという愛しい恋人を他の者に譲れるはずもなく、アキラはもう一度やり直す決意をしたのだ。
 もしヒカルが傷ついた心を社で癒そうとしたなら、社は赤頭巾ちゃんいらっしゃいとばかりに据え膳を平らげてしまうだろう。また、そうもっていくの可能だ。
 社がヒカルに好意を抱いていなければ心配は無い。ヒカルが面食いでなければ心騒めく事も無かっただろう。
 二人の間に何かあったらと思うとアキラは居ても立ってもいられなかった。
 ヒカルもアキラが何を疑っているかは一目瞭然だったが、疑われる事は何も無かったのだからと軽く躱す。
「あぁでも初めの何日かだけで、今は越智んとこだぜ。なんか気が合うみたい」
 そんなヒカルの言葉にアキラは勘繰る事なく納得する。いや、自分自身の理性を総動員して納得させたというべきか。
 しかしアキラはもう迷うつもりはなかった。ヒカル以外の言葉を信じて二人の仲を拗らせるつもりは金輪際無いと断言出来た。
 そして今は空白の時間を埋めることが優先課題だと、行き先を自分達の家へと変更するのだった。
 真っ赤なアルファロメオが夜の街に溶けて、ネオンと同化していった。



 和解をした二人だったが、まだまだこれからいくつもの試練に立ち向かう事となるだろう。
 ハードルは飛び越えられないほど高いかもしれない。
 けれどこの繋いだ手を二度と離す事のないように……。
 もし別れる時がくるのなら、心の底から笑顔で別れられるような関係を築いていくのだ。
 これから、長い時間をかけて……。




長かったです…。やっと終わりましたが、ちょっと寂しかったり(笑)
読んでくださってありがとうございました。



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