雨後の月10
流石に家人が留守のところをいくらスペアキイを持ってはいても勝手に入る事は出来ずに社は玄関前で時間を潰していた。 これで相手が家の中に立てこもっているならスペアキイの使い用もあるのだろうが、今は社のポケットの中でひたすら違和感を訴え続けている。 もう三日も予定を延ばして東京にいるのだが、越智にはこの間会ったきりだった。 今日はもう帰ろうか、それともあと三十分は居ようかと考えつつ時間ばかりが無為に過ぎていく。 目を瞑り頭の中で棋譜を並べながら待つのも限界で、越智とて他に家があるのだから、必ずここに来るという保障はないと社は自分を納得させて目を開けると、見覚えのある靴が視界に入る。 視線を上にしていくと眼鏡姿の待ち人が立っていて煩わしそうに目を細めていた。 「迷惑防止条令違反」 見下ろしながらの越智の冷たい声に社は困ったような笑みとやっと会えたという安堵の笑みを混ぜたような表情を作る。 「ホンマ冷たいやっちゃ」 この間、酒に酔った越智を甲斐甲斐しく世話をした事を今更ながらに後悔しつつ、部屋へと入る越智の後について、社は当然のように家の中と上がり込む。 越智がそれを許したのは先日の失態のせいであろうか。 「なぁ。俺な、もう三日通ってるんやけどな。そろそろ話してくれてもエエやろ?」 アキラとヒカルに何かをしたのだろうと確信をもって越智を追及する社に、越智はどこまでも冷ややかな態度を崩さない。 「三顧の礼とでも?」 かの有名な孔明のように三度訪ねられたからといって、話さねばならない理由はどこにもない。 越智としては、このおせっかいな男を早く追い出してしまいたかった。待っていると知っていてわざと留守にしても毎日のように通うこの男には、はっきりと口で拒絶しなければ理解できないのだろう。 意を決して君には関係の無い事だと越智は言い掛けたのだが、それより早く社の方が先制する。 「この間わざわざ玄関の鍵まで閉めたったのに、冷たい仕打ちむやわ。これも返そう思てたんやけど、このままやったら返されへんなぁ」 銀色の鍵が自分のマンションのスペアキイである事は一目瞭然で、極力動揺を隠す越智を社は面白そうに見つめていた。 それまで何も話す必要が無いとばかりの越智の態度だったが、社の手の中の鍵と言葉で考え直さざるを得なくなったようだった。 大きくため息をつく越智が重い口をようやく開く。 「許せなかったよ。囲碁で惹かれるのは理解できるけど、男同士だなんて」 まるで予め用意されていたようなマニュアル通りな越智の発言に社は皮肉っぽく口を歪めた。 「お前、嫉妬はみっともないで」 社の脳裏にはアキラの部屋の前で惨めに肩を落とした越智の姿があった。あれは嫉妬以外の何物でもなかったはずだ。 「うるさいっ」 図星を指されたからだろう、激しい感情が越智から溢れだす。 「今の世の中で誰が認める? 迫害されるのが落ちだったら、今のうちに別れる方が二人のためなんだ!」 大義名分と本音との間には大きな隔たりがあったが、越智は自分の行動を正当化するための理由が必要だった。 社の言うように嫉妬だけで行動したのでは無いと思い込ませるための常識という理由。 決して自分の感情を優先させた訳ではない。塔矢アキラへの感情が行き場を無くして捨身とも思える行動に出た訳ではない。すべては、二人の事を思いやっての事、囲碁界の将来を憂いての事なのだという大義名分。 本音を忘れるように時には飲めもしない酒に頼りまたは溺れて、自分の行動が正しかったと思い込む事で越智は自分を救おうとしたのか……。 「お前それで幸せなんか? 傷ついた塔矢を見続けるんは不幸ちゃうんか?」 社の目から見てもアキラがヒカルを忘れるとは思えない。この間、一瞬垣間見ただけだがアキラは真剣に苦しんでいた。 そして越智もまたアキラへの想いと、後悔に苦しんでいるように見えたのだ。 社の言葉に越智の表情が苦悶に歪む。 「解ってる! 解ってるんだ!」 心の奥底からの叫びは、越智の情熱を表わしていた。自分の感情に正直でプライドの高い彼。 社は優しい口調で慰めるように越智の肩を抱き寄せる。 「お前、もっと強い奴やろ? 昔の北斗杯で俺とお前とで勝負したやんか。あのまま黙っとけばホンマはお前が代表やったのに」 ほんの数年前に感じた越智の自尊心。今よりももっと幼さがあったが越智のプライドの高さは、成長した今もまったく損なわれてはいない。 そして社が推測したとおり越智は自分のプライドの高さを持て余し、それによって苦しんでいた。 反感を抱かれないよう、社は諭すように越智に語りかけてやる。 「そんなんで塔矢を手に入れたつもりになって、自分が可哀想ちゃうんか」 周りや自分も傷つけてまでも相手に押しつける感情は醜く不快でしかないのではないか。少なくとも社はそう思っていた。 「俺かて進藤の事憎からず思とるけどな。陥れたり傷つけてまで自分の感情押しつけとうない」 社もヒカルの事を好きだと思う気持ちがあるが、ヒカルの心を手に入れたいがために無茶な行動はしたくはない。 もし自分だけを考えて行動に出たならばきっと幸せを見付けだす事はないだろう。 「へぇ、御高潔なことで。おあいにくさま僕は、僕さえ、……僕さえ良ければ」 社の言葉に触発されたのか越智は皮肉を口にしたあと、顔を歪めて嗚咽を洩らしだした。 「……塔矢を騙して、嘘をついて進藤と別れるように仕向けたさ。でも僕では二人の心までは別れさせられなかった……」 涙は次第に大粒へと変わりその様子からも越智が激しく後悔している事が見て取れた。 「なっ、塔矢の今の姿見て反省してるんやろ? 塔矢に正直に話したらエエやん。なんやったら付き添うたるし」 越智もアキラの憔悴ぶりに、アキラとヒカルの間に自分の入る余地が全く無い事を思い知ったのだろう。 絶望と後悔の間で揺れ動きながらも、良い人にはなれない自分の未熟さに歯痒い思いをしたのかもしれない。 一頻り泣いた後、越智は眼鏡を外して涙を拭い、真っすぐに社を見つめ問うた。 「電話では卑怯かな」 その口調に迷いは無かった。だが面と向かってまでは話せるだけの勇気は持てないのだろう。 それはアキラの怒りが恐いのではなく、反対に感謝された場合の反応が失恋した者にとって辛いからだ。 電話の子機を手に取り、プッシュボタンを押す越智の側から社は離れて小さなベランダへと出ると窓を閉めた。 「……」 都会の喧騒で部屋の中の声は聞こえない。何か会話をしているようだったが争っているふうでも無かった。 聞かないつもりで出たベランダだったが、社は思いついたように部屋に入ると、もう切ろうとしていた電話の子機を越智の手から奪う。 「久しぶり、俺この間から進藤の家にやっかいになっとるから。なんかあったら連絡してや」 別にヒカルとは何も無かったが、アキラがまだヒカルに思いを寄せているなら十分に牽制にはなったはずだ。社の想像どおりなら今の台詞に平常心ではいられないだろう。 これでアキラとヒカルは一歩を踏み出せると確信があったが、問題は目の前の越智だった。 社は越智の小さな身体を慰めるように抱き締める。その小さな身体にマグマのような情熱を秘めた越智。 「お前のような情の深い奴、俺好きやで」 悲しくなるぐらいに真っすぐな魂とどこまでも高潔なプライド。ただアキラを好きになったがために歯車を狂わしたのだ。 「君みたいに人の心に土足で踏み込むような奴は好きじゃない」 結果的に社の思うがままになった自分を恥じてか、越智は冷たく拒絶する。だが社は意味深な笑みを浮かべているだけだった。 「好き違う言われたら俄然燃えるんやけどな」 体格では一回りも二回りも勝る身体で社は越智を抱き締めた腕に力を込める。 「はっ離せ!」 「あかん、離されへん」 社の不可解な行動に越智は必死になって身動ぐが、体格差がそれを阻み、社もまた笑みとともに楽しげに否定した。 「なぁ、これから一局打とか?」 「離してくれるなら、ぜひお願いするよ」 社の誘いを幸いと、越智は窮屈な態勢から抜け出そうとしたが社の腕の力は弱まらない。 「……うーん、どっちにしよ」 「考えるなっ!」 ずっと悲しみだけが満ちていたその部屋にようやく笑みが戻る。後悔の涙を流し続けた狂気の愛は、静かにゆっくりと眠りにつくのだった。 すみません、ヤシオチ…。本当はヤシオチでもっと書いてたんですが省略しました。次回から主人公登場します。 |