砂漠の風12




 最小限の荷物をヒカルは皮袋の中につめる。中身は緒方に拾われた時に持っていたものだけだ。
 アキラからは何も貰いたくないが、馬だけは仕方が無い。
 ここから。
 アキラから逃れるためには絶対に移動手段という意味で馬が必要なのだ。


 ヒカルはアキラと過ごした部屋を見渡す。視界一杯にあるヒカル用として揃えられた生活必需品の数々。
 砂漠の民は砂嵐で乾燥しがちな肌の為に香油を擦り込むが、アキラから贈られた高価なな香油はヒカルの肌をより一層美しくした。それももう用はない。
 

 すべて。
 思い出も含めてすべてここに置いていく。



 太陽が沈むと同時にヒカルは馬小屋へと向かった。今夜は満月ではあったが、幸いなことに多くの雲が我先にと月を隠す。
「やはり二頭失敬しますか?」
 満月のため実体を得た佐為は、扱いやすそうな温和しい馬を物色していた。満月であるため二人と分かれたため二頭は拝借しなければならないだろうと目星をつける。
「お前、乗れるのかよ」
 ヒカルの言葉に佐為は愚問だとばかりに頭を左右に振る。
 人並み以上の腕があるのなら、乗りやすそうな馬ではなく体力のある、脱出に適した馬を探している。
 なにしろ実体化するのは一ヵ月に一度の満月の夜だけなのである。
 何事も慣れというものがあるように、馬に乗るのだって慣れればどうという事はないのだが……。
 つまり慣れないことは出来ないのである。
 ヒカルは再び顔を出した月を見上げると溜め息をつく。雲が途切れた今は砂漠が月に照らされるためなんと明るい事か……。
「しかし、よりによって満月だなんてついてないよなぁ。他の日なら一頭だけでも良かったんだろうけど。佐為も乗り慣れない事だし、二人を乗せても大丈夫そうな牡馬にしとくか」
 身体も大きく気性も荒そうな黒毛の牡馬を前にして、ヒカルは心を決めるとその背に二人乗り用の鞍を乗せた。
「確かに満月の月明かりは逃げるに適してませんし、一人で逃げるほうが機動力がありますからねぇ」
 馬とて二人を乗せて長距離を走るには限界があるが、幸いな事に雲が月を隠し二人の姿を隠してくれる。
 月明かりが無ければ足元は不安になるが、氷点下になる砂漠は風もなく眠りを享受していた。逃げるための条件は整っている。
 二人は馬に乗ると月の消えた砂漠へと馬を走らせた。
 行き先は佐為の生まれ育った国。遠い遠い西の国。
 佐為はヒカルが出ていく決心をした事には何も触れなかった。それどころか新たなる旅立ちを喜んでいるようにも見えた。
 佐為のその優しさがヒカルは嬉しかった。
 そして一面砂漠の中を馬を走らせる。
 男の身となった今、いつもよりも腕力も体力もあるためヒカルは疲れを知る事なく手綱を捌く。
「やっぱり二人分の体重は厳しいな」
 少しずつ馬の脚が遅くなって、どんなに急かしても馬は歩みを止めたがる素振りを見せた。
 さすがに男二人の体重は丈夫そうな牡馬にも荷重だったらしい。
 実際にはかなり遠くに位置するのだろうが、二人の視界の先には岩場と思われる土地が広がっている。
 そこまで行けば少しぐらいは馬を休ませる事も可能だろう。
 上空高くに吹く風が雲を蹴散らしたため、周辺の砂漠は満月の月明かりを反射し銀色の世界を広げている。
 朝になれば一面が黄金の輝きで満たされ、夜は銀の輝きを秘める砂漠。
 ヒカルはあの日アキラと二人で見た砂漠の夜明けを思い出していた。世界が輝きに満ちた瞬間の美しさは何事にも変えられない程で……。輝く砂漠と同じく自分の心もまたアキラに愛されているという幸せに輝いていた。
 それに比べて今はなんと暗く惨めな事だろうかとヒカルは泣きたくなる自分を叱咤するのだった。



 暫らくして二人と一頭は岩場の広がる土地まで歩を進めていた。苛酷な環境の岩場にも、辛うじて草程度は生えていたが、馬が満足するには程遠い。
 それでも身を隠すことの出来ない砂漠と違って、岩場は追跡者から逃れやすいと言えよう。
「馬を休憩させたらまた出発するぞ」
 ヒカルは佐為が馬から降りるのに手を貸してやる。長い髪の毛に端正に整った面差しはヒカルが知るどの人物よりも雅やかだ。
「今夜のような天候の良い晩は滅多に無いでしょうしね。それにしても塔矢もそろそろ気が付いた頃でしょうか」
 佐為は満月を見上げた後、追っ手が来ていないか気になるのか自分達が逃げてきた方向へと視線を移す。
「馬以外は盗んでないし俺なんか追ってこないだろう」
 追ってくるはずがない。
 アキラにとって自分はただの頭数なのだとヒカルは悔しさに唇を噛み締める。望んでいたフリに騙されて、もう少しでアキラの腕の中に飛び込むところだったのだ。
 そう思うと早くアキラの正体を知って良かったと思わなければならない。
「本当にそうでしょうか。塔矢がヒカルを好いている気持ちに偽りは感じられませんでしたが」
 佐為の言葉にヒカルは苛立ったように口調を荒くする。
「あいつが話してんの聞いただろ! 塔矢にとって俺は価値なんかないんだよ。もう絶対に会うつもりもないんだからあいつの事は口にするんじゃねーぞ」
 自分は男なのだ。不本意にも身体は女になるけれど、アキラの一番になれないまま、その他大勢として生きる事は出来なかった。



 ヒカルはあの部屋にすべてを置いて出てきたつもりだったが、一番置いてきたかった心だけは置いてこれなかったのだ……。





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