それから数日が過ぎて、ヒカルの家に塔矢からの電話が入った。
『この間の事で、一日付き合ってもらえないかと思ってね』
ヒカル自身、用件を聞くまですっかり忘れていたのだが、あの穴埋めはすべきだとすぐに思いなおす。
なにしろ、塔矢には酔っていたであろう和谷の行為から助けてもらったというのに、それを仇で返すような真似をしたのだ。
当然、一日ぐらい空けるべきだろう。
「ええっと、俺は今週ならいつでも大丈夫だけど」
スケジュールを思い出し答えると受話器の向うから明るい声が返ってくる。
『じゃあ明日、十時に迎えに行くから』
この場合自分には質問権は与えられていないのだろうか。一日何をするのかと聞こうとしたのだが、塔矢は用件だけ伝えると電話を切ってしまったのである。
しかしどうせ囲碁しかないのだから、あえて言わなかったのかもしれないとヒカルは考え直し、自室への階段を上ったのであった。
* * * *
翌朝十時。
家の前に派手な外車が停車され、その中から塔矢が出てきたのを窓から見ていたヒカルは慌てて家を飛び出した。
なにしろその車の排気音ときたら、腹の底から響くような音で近所迷惑以外の何物でもなかったからだ。
2人乗りのその車はヒカルと塔矢を乗せて走り出す。
「塔矢、この車……」
「もうすぐ二十歳の誕生日だからって無理矢理押しつけられちゃって」
「ええっと、行洋先生?」
「いや、緒方さん。アルファロメオは自分のタイプじゃないから使えって言って置いて帰ったんだ」
「ふーん。良いなぁ、足があると便利だしなぁ」
そのアルファロメオが片手に手が届くぐらいの金額だとは思わないヒカルの反応。
もちろん塔矢もそんな反応など気にしてはいなかった。
だが、運転席と助手席しか無いとはいえ、その本皮のシートの感触はさすが高級車と言えた。
「進藤は免許もってるの?」
「一応は。ペーパーだけどな。ところでこっちの方面って碁会所でもお前の家でも無いよな」
都内でも有名な一流ホテルが見えてきて、さらに行き先が解らなくなる。
「今日は趣向を変えて、たまには一緒に汗を流そうと思ったんだ」
「えっ?」
その意味不明の言葉にヒカルの思考がストップする。
『一緒に汗を流す?』
都内の超一流ホテルの地下に車を入れる塔矢の顔を『どういうつもりだって?』とばかりに見つめてしまう。
一緒に汗を流すという言葉の意味は広い。しかし場所がホテルときたら、汗を流すという意味は限られてくる。ついでに真っすぐフロントに足を向けた塔矢に、ヒカルは自分の考えが正しいかもしれないと歩みが止まった。
『まさか乱交パーティーとかって言わないだろうな?』
ホテルの部屋に入ったら塔矢の彼女や友達が待ってたりして……。等と少し期待しつつもいつもの塔矢からはそんな展開は万が一にでも無いであろうとは思う。思うがヒカルも年頃の男子であるからして、そういう妄想も仕方の無いことであろう。
しかしそうなると塔矢と自分が比べられるという事実に思い至る。脳裏に浮かぶグラビア写真の塔矢と自分では素材が違いすぎるし、経験が無い事も解ってしまうのではないか?
もしそんな事になったら逃げるしかない! 固い決意をしたヒカルの疑問が解けたのはエレベーターに乗った瞬間だった。
行き先を押す塔矢の指先は、ホテル内のフィットネスルームがある階で、ヒカルは自分の考えに自嘲するとともに安堵に胸を撫で下ろした。
「碁を打つのも良いけど、週に一度は身体を動かそうと決めてるんだ。迷惑だった?」
「いや、俺も身体動かすのは好きだぜ」
と、言っても今では全くと言って良いほど運動などはしていない。あくまでも小学生中学生の時の話なのだ。
「いつもは筋トレと軽く泳ぐぐらいなんだけど、進藤は何がしたい?」
「へー泳げんのかぁ」
「三コース、五十メーターってところだけどね」
「たまには泳ぐってのも良いな」
「じゃあ、そうしようか」
受付でレンタルの水着やタオルを借り更衣室へと向う。途中、トレーニングマシンが並ぶ部屋が見え、例え週一でも身体を動かすことで塔矢のような筋肉質な身体になるならやっても良いなぁ等と考えてしまう。
どちらにしろ塔矢とは比べようも無く、先日の自分の情けない姿と隣を歩く塔矢の姿を比べてしまって、またあの気欝な感じを思い出してしまうのだった。
* * * *
都合良くヒカルを誘い出す事に成功した塔矢は、文字通り御満悦であった。言葉にこそしないがれっきとしたデートである。
囲碁を打つという二人だけの世界も捨てがたいが、先日のヒカルの姿を見てからというもの是非とももう一度あの背中のラインや細く伸びた足を見たかったのである。
そんな考えに至った自分を変質者かとも思ったのだが、好きな人間の近くに居たい、ましてや触れたいというのは本能なのだから、その欲求のまま行動しようと決めたのだ。
なにもこの感情を押しつけようとは思っていない。ほんの少し彼との間に『何か』が欲しいだけなのだ。
そんな塔矢の考えなど露知らず、ヒカルは着替えを済ませる。もちろん自分の背中に塔矢の視線が注がれているとは思いもしない。
特に色香が漂っている訳でもなく、少し華奢な感じがするが普通の男の身体である。それなのヒカルに対して魅力を感じる己れに、塔矢は今更ながら罪悪感を感じていた。
『かなり重症だな』
それもそうだろう。何しろ十二歳の頃から彼だけが特別だったのだ。長い年月の間にその想いが湾曲し本質を失っても仕方が無く、そしてその想いは根強く己れを支配しているのだ。これを重症といわずなんというべきか。
「あんまし暖かく無いなぁ」
「泳いでいるうちに熱く感じるようになるよ」
温水プールに身を任せてヒカルが泳ぐのを塔矢は微笑ましく見つめ、そして追い掛けるように隣のコースを泳ぎ始めた。
一時の間塔矢はヒカルの事を忘れるぐらいに夢中で泳ぎ、何ターンか繰り返す。そして壁に手を付き、水から顔を出した塔矢にヒカルが話し掛けた。
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