「塔矢って、綺麗なストロークで泳ぐな」
「ここのインストラクターに教わったんだ。でも進藤もかなり泳ぐほうだね」
自分もかれこれ三十分以上は泳いでいたが、ヒカルも同じように泳いでいたらしい。ヒカルの顔に得意げな笑みが浮かぶ。
しかし、それも一瞬の事。
「囲碁始めるまでスポーツはなんでも手を出してたからな。っ! 痛っ、つった!足つった!」
ヒカルの笑みが痛みに歪む。
「大丈夫か?」
そう言うと塔矢は咄嗟に進藤の傍に行き、水中で右の脹脛を押さえる彼をプールサイドへと導く。
「酷使しすぎた……」
「ろくに準備運動しなかったからだよ」
プールから上がり、ヒカルに肩を貸しながら更衣室へ向う。
「この前から、なんか俺って格好悪いとこばかりみせてるよなぁ」
塔矢はそんな事無いよと声を掛けたかったが、この前の目の保養も今回肩を貸して歩いていることも自分にとっては最高のシュチエーションで言葉が出てこない。なにしろ肌と肌が触れ合うなんてこの先有るか無いか……。
胸の高鳴りを覚えつつ、塔矢は平静を装うのに必死になるのだった。
* * * *
塔矢に椅子に座らされて、つった右足をマッサージしてもらう。久しぶりに運動しすぎたらしい。
なにしろ隣のコースでマイペースに泳いでいる塔矢に負けじと泳いでいたのだから、今の状態も納得出来る。
「悪いな、塔矢」
「いいや、誘ったのは僕だし」
そう言って塔矢が優しくしてくれる程、肩身が狭い思いがする。囲碁以外では温厚な彼だが、ヒカルは塔矢の激情家の部分をよく知っている。
だから戸惑う。
塔矢が綺麗な笑みを自分に向けてくれればくれるほど戸惑ってしまう。その美しい表情に目が奪われてしまう。
塔矢が真っすぐ自分を見つめるのに対して、自分は特別じゃないかと錯覚してしまいそうで……。
「まだ、痛むか?」
「……いや、ありがと。もう痛くないや」
身体のダルさを隠すように元気な声音を装うが、身体はまだ力が入りきらなかった。
その証拠に立ち上がろうとしても、足に骨が入っていないかのように身体を支える事が出来ずに、その場に座り込んだまま……。
「進藤。悪いようにはしないから、少しの間じっとしておいて」
塔矢の腕が脇の下から回されて、そして立ち上がるようにして身体を持ち上げられる。
「ちょっ、塔矢?」
その突飛な行動に思わず身体が竦むが、一回りは体格の良い塔矢の為すがままとなる。
一体どこに行くのだろうと悩むのも束の間、更衣室の脇のシャワールームに連れていかれてしまう。
「いきなりなんだよ、塔矢ってば」
抗議の意味で睨み付けるが、なんか塔矢の様子がおかしいのは気のせいだろうか? 囲碁をしている時よりももっと真剣な眼差しにこちらの方が戸惑ってしまう。
ついでに言うなら半裸状態のこの格好で抱き合っているというのもおかしい話で。
「……塔矢?」
早く離してくれないかと身を捩るが解放してもらえそうになく……。そうなるとどうしてもこの状態を意識してしまう。
いや、しない方がおかしいと思える情況なのだ。
押し退けようにも身体に力らしき力は入らないし、塔矢は何も言わないし、そもそも狭いシャワー室に男二人というのは変じゃないだろうか?
ヒカルはどう反応して良いか解らず、身体とは正反対に脳内での神経細胞のみが活発に動いていた。
そんなヒカルの頭の上にシャワーが降り注ぐ。
「いつまでもそんな格好じゃ身体が冷えきってしまうだろ?」
優美な笑みを間近で向けられてヒカルの心臓が早鐘のように打ち始める。
『なっなんだよ、俺?』
自分の心臓の反応はものすごく過敏だというに反対に思考と口は思ったように動いてくれない。
「シャワーぐらい一人で浴びるし、その……、こんな狭いトコに変だしさ」
辿々しく紡ぐが、塔矢は聞く耳を持っていない様子で……。
「大丈夫、二人でも十分広いし、君はまだ万全じゃないだろう? 身体が冷えきってしまう前に着替えないと風邪でもひかれたら誘った僕の責任だからね」
確かに塔矢の支えがなければ疲弊の極致にある身体は立つことすら拒否していて、試しにと塔矢の手が離れた瞬間バランスを崩してしまう。
改めて塔矢に支えられるが、まるで抱き締められているようで気恥ずかしくなる。
その上、塔矢の右手が背中に回ったかと思うと腰の辺りまで下がってきて……。
「だ、だからって、着替えぐらい一人で出来るって! こら、脱がすなー!」
背後から水着がずれる感覚に慌てて腰の位置を移動させる。
「どうして、脱がないと着替えられないだろう?」
「そりゃそうだけど……手伝ってもらう程の事じゃないし」
「男同士じゃないか、何も恥ずかしくないと思うよ」
ごく当たり前の事を言っているのは解るが、こちらが辞退しているというのに塔矢には全く通じていないらしい。
ここまでくると流石に苛立ちがまざる。
「……あのなぁ塔矢。いい加減に人をからかうのは止せよ! 俺、怒るぞっ」
睨み付けるように、そして声音も変えたせいか、ゆっくりと塔矢の身体が離れる。どうやら足も、シャワーの湯にあたり少しずつ筋力を回復しているらしい。
「解ったよ、もし一人で着替えられないならいつでも声かけてくれれば良いから。タオルここに掛けておくよ」
* * * *
なんと愉快なアクシデントだったろうか。
途中我を忘れそうになったが、いきなり押し倒してしまうという暴挙に出る事無く、ただのお節介焼きという事で、進藤の身体の感触をかなり堪能した。
これ以上密着していると、半身が反応してしまって危険な事になっていただろう。
しかし、思う存分進藤を抱き締めたし、その背中や腰にまで触れることが出来た。
ずっと心の内に仕舞っておくつもりの、進藤に対する気持ちへのせめてもの贈り物にしたい。
こんな偶然は二度と訪れないだろうし、そんな切っ掛けを自分から作ろうとは思わない。もう進藤を囲碁以外で誘うこともないだろう。
ヒカルの隣の個室で、塔矢は冷たいシャワーを浴びたのだった。
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