初めて塔矢と打った。
自分の実力での、初めての碁は結局負けてしまったけれど。それでも、とても良い勝負だった。
そして佐為を見つめていた塔矢は、自分を見つめてくれていて……。その感覚は筆舌に尽くしがたく……。
これを満足というのだろうか。
* * * *
「ただいまー」
遅くなってしまった帰宅。時間はもうすぐ九時を回る。今日手合いが有る事は話してあったから遅くなるとは予測していてくれていだろうが、それでも肩身が狭い。
「対局は早く終わったんだけど、ずーーーっと検討やっててさァ、結果はーー」
これが本当に手合い後の検討で遅くなったのなら、こんなに饒舌にはならなかっただろう。
まるで取り繕うような口調になってしまっている事に気付き、そして親不孝の極みにヒカルは心の中で母親に謝った。
* * * *
名人戦の一次予選。結局塔矢が勝った。それでも終わった直後に塔矢は今までの真剣な表情を崩した。
「……進藤」
自分の名を呼ぶ塔矢の表情は、昔へと戻ったかと思うほど人当たりの良い温和な表情。
「この対局の検討だけど、二人っきりになれるところでしたい」
急な申し出だった。普通ならこの場でしたっておかしくないのだけど。
「どうして?」
わざわざ二人っきりって、何か人に聞かれたくない事でも言い出すつもりなのだろうか?
ヒカルが返事を渋っている間に、和谷や越智、冴木などの面々が集まってきて囲まれてしまう。
「あっ、終わったんだな?」
皆、昼の段階での展開から気になっていたらしい。
「すごい複雑、この黒って?」
口々に目の前の碁石の流れと展開に質問してくる。確かに盤面は複雑で一見には解らない部分もあるだろう。
それを今説明しろといわれて、出来ない事もないが折角塔矢と打てたのだから、彼の意見が聞きたいという思いの方が強かった。
「こういう事。あの碁会所ならそんなに遠くないし、どうだろうか?」
塔矢もヒカルと同じ考えだったらしい。
「いいぜ」
ヒカルはあっさり了承すると、ギャラリーに人懐こい笑みで謝って手際よく石を片付けた。
「あっお前らどこへいくつもりだよ。今の手順をさぁ、おいって」
和谷の言葉に身振りで謝罪してヒカルと塔矢は対局室を出る。
「行っちゃったよ」
おまけに仲良く出ていく様子は不思議ですらあった。あれだけお互いに反目し合っていたのに昼食まで一緒だったらしいし……。
「まぁ、今度棋譜並べてもらうよ」
芦原がそんなギャラリーを宥めるように口を開き、結局その場はうやむやながらも終局をむかえたのだった。
* * * *
「お前って本当強引」
幸い空いていた座席に座ったヒカルが右隣の塔矢に話し掛ける。
「そうかい? そんな評価は初めてだな」
実際、いつも自制しているつもりの塔矢であるが、やはりヒカルが関わると前後見境というものがなくなるらしい。
だから、ヒカルから見れば塔矢=強引・自分本意という評価となるのだろう。色々と雑談しているうちに二人は目的の建物へと入っていく。
久しぶりの碁会所に足を踏み入れると受付の市河が二人の姿を見て笑顔を見せた。
「あら、いらっしゃい。進藤君も一緒なのね」
「こんにちわ」
珍しいとばかりの顔を見せた彼女にヒカルも照れ臭そうに挨拶する。
「市河さん、奥の休憩室借りるけど良いかな?」
一応その言葉は許可を求めるものだったが、有無を言わせない迫力があった。
「あらあら、誰にも邪魔されたく無いのね」
長い付き合いで塔矢の性格など知り尽くしているのか、彼女が塔矢の意図するところを的確に読んでいるのが解る。
「そんなんじゃありませんけど、また僕が負けるのを見せたくないだけですよ」
ずばり言い当てられて塔矢は気まずそうに弁解した。
「何言ってんだよ。今日の予選勝っといてさ」
確かにこの碁会所では佐為が打ったため二度塔矢は負けてはいるが、今の実力は予選の手合いどおりである。
「あっ今日は一時予選だったものね。アキラくんが勝ったのね」
顕らかに塔矢贔屓の彼女は嬉しそうに声のトーンを上げた。だがそれはヒカルが敗けたということでもある。
「じゃ、奥行きますんで」
気を使ったのだろう塔矢が、そう言い切ってヒカルの手を取り奥へと歩きだした。
かなり強引に手を取られて、ヒカルは先程の『塔矢=強引』という認識を確固たるものとしていた。
奥の扉を開けると、休憩室と呼ばれるだけあって、応接テーブルと椅子、そして事務用のロッカー。備品が入っているのかダンボール三箱が四畳半の部屋に並べられていた。
程なくお茶が運ばれ、ヒカルは先程の一局を並べ始めようと碁石をも持ったその時。
「進藤」
碁石を並べ始めていた右手を、塔矢に掴まれる。ヒカルが訝しげに顔を上げると塔矢の視線とぶつかった。
そして……。
「進藤、……君の全てが知りたい」
突然、思い掛けもしない事を真顔で言われて思わず顔が赤らんでしまう。
相変わらず手は握られたままで。
どういう意味なのだろうか?
おそらく佐為の事なんだろうと思うが、ヒカル自身どんどん顔が赤くなっていくのが解る。
何故なら、塔矢の言葉が『そういう意味』にも考えられたからだ。
『まるで口説き文句みたいじゃん』
考えすぎとは思っていてもじっと見つめられては、確信だけが強くなる一方のヒカルである。
見つめ返して、塔矢の顔を観察してヒカルは、彼がとてもキレイな顔立ちをしているうえに、ここ二年で男っぽくなった気がしていた。
そうしているうちに塔矢の顔も赤くなる。
自分の言った言葉の意味に気が付いたのだろう。
「あの、そういう意味じゃなくて。いやそうとってもらっても差し支えないんだが」
しどろもどろに弁解する塔矢だったが、その内容はヒカルの考えを裏付けるものであった。
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