君の声が聞こえる場所6




 静かな住宅街をアキラは住所だけを頼りに歩いていた。棋院でヒカルの住所を聞いてから三日間も悩んだのだが、結局こうして家を探して歩いている自分をアキラはらしくないと思う。
 こんなに執着したのは初めてだった。
 よくよく考えてみるとヒカルとは第9回若獅子戦でもプロと院生という立場は違えど同じ場所にいたのだ。
 その時は少しだけ目に留まったと思うのだが、いつしか忘れてしまっていて顔も思い出せなかったのである。
 先日、進藤ヒカルに関する事を調べていて思い出したというか認識したのだが、若獅子戦の時はsaiとの接点すら見えなかったと思う。
 勿論、父・行洋との新初段シリーズの一局でもそうだった。
 新初段シリーズは別として、若獅子戦では全てを見ていた訳ではなく、断片だけ繋ぎ合わせても三日前の一局と比べ謎が深まる。
 ふと気付くと目的地近くまできていてアキラは住所を確かめるため周囲を見渡す。
 白壁の塀は定期的に塗り替えられ瓦も替えられいるのか真新しい印象を受ける。その向こうに見える竹薮は亀甲竹か。
 門構えで家というものが解るがアキラはあのヒカルからイメージする家とはかけ離れていて驚きを隠せなかった。
「ここが、進藤の家……」
 門の奥には見えるのは伝統的な和風建築に基づいた邸宅で、アキラ自身も自分の家が他よりは広いとは思ってはいたが、ヒカルの家は桁外れだった。
 社長の孫という越智の家とはまた違う、旧家と言われるに相応しい家。蔵まであってその歴史を雄弁に物語っている。
 入ろうかどうしようか迷っていると、箒を持った老人が落葉と格闘していた。
 掃いても掃いても風と戯れつつ落ちてくる葉を掻き集めている様子に声を掛ける機会を逸してしまう。
 このまま帰ろうかとしていると奥から手伝いらしい若い女性が現われ、老人から箒を奪い老人から仕事を取り上げたのだ。
 一体どんな場面が繰り広げられているのかという興味もあったが、他人の家を覗き込むというのも失礼だと、アキラは見つからないようその場を離れようとした。
 しかしそんな配慮も虚しく、長居してしまったらしいアキラが老人に見つかり声を掛けられる。
 てっきり諌められるかと思ったアキラだったが老人から出た言葉はまったく別のものだったのである。
 それは、期待の交じった驚きの声で、アキラには何度となく経験があった。
「もしや、塔矢三段? まさかヒカルとお約束を? 連絡くだされば車をやりましたのに。いや、それよりもヒカルは出掛けてまだ帰っとらんのです」
 ヒカルの祖父だと自己紹介され、アキラは自分がプロ棋士の塔矢アキラだと知られてるのだと内心ため息をついた。
 世間一般では知られていない棋士なのだが、知る人ぞ知ると表現すべきか、中には碁に対して熱心なファンがいて顔を記憶されている。
 進藤ヒカルの祖父も碁打ちの顔が判別出来るぐらい碁に精通しているのだろう。
 正体がばれてしまった今、アキラは通りすがりだと偽る事も出来ず、それでも本当の事を言えなくて頭を下げる。
「いえ、どうやら僕が日にちを間違えたようです」
 勿論ヒカルとの約束などしていないし、ここに来たのだってヒカルと会おうと思った訳ではない。
 押し掛けてまで一局打とうと誘うなど非常識であったし、それはアキラも充分わきまえていた。
 ここに居るのは単にヒカルに興味があったからで、何か少しでも良いからヒカルの事を知りたかったからである。
 こんな事をしたところでどうにもならない事を解っているからこそ、アキラは恥かしさと情けなさに頭を下げた。
「ヒカルは出掛けてますが、もしよろしければお茶でも」
 アキラには平八の誘いを断る理由はなかった。それよりもヒカルの祖父ならば少なくとも碁を打つだろうし、ヒカルの秘密の一端を担っているかもしれないとアキラはにらんだのだ。
「では、お茶をいただく替わりに、よろしければ一局お相手くださいますか?」
 いつもの人当たりの良い笑みをアキラが浮かべると、平八は願ってもない申し出だと二つ返事をし、庭で落葉掃除をしている女性に来客だと声を掛けた。
 頭を下げて奥へと走る女性は、自分とさほど変わらない年頃に見える。長い髪が印象的だったが、次の瞬間にアキラは彼女の事などすっかり忘れてしまっていた。
 奥座敷に案内されるとまもなく玉露と茶菓子がアキラの前に運ばれ、そして碁盤と碁石も用意される。
「塔矢先生に一局御指導いただくなんて夢のようですよ。この隠居の身には刺激が強すぎますな」
 それまでは仕事一筋だったらしいが、半年程前の人間ドッグで軽い脳梗塞が認められたらしくそれ以後は第一線を退いているのだという。
 今はヒカルと碁を打つことだけが楽しみだという平八はごく普通の孫を可愛がる老人だった。
 この人物がsaiなのかもしれないとアキラは用心深く様子を伺う。
「…ヒカル君は良い生徒でしたね」
 暗に、平八が碁を教えたのだろうというアキラに平八はとんでもないという。
「ヒカルはいつのまにか碁を覚えてきたのですよ。本なのかどこかの碁会所なのかまたはネットなのかは知りません」
 気が付けば碁盤がヒカルの部屋にあったのだという平八。
 では独学であのレベルまでに達したとでもいうのだろうか。確かにある程度のレベルになれば棋譜を並べるだけでも勉強にはなるが……。
「それは小さい頃からですか?」
 アキラは自分もごく小さい時から囲碁を打っていたから解る。碁というものは日々の努力と研鑽なのだ。
 周囲はアキラの事を神童ともてはやすが、アキラは他の者より少しだけ長く真剣に囲碁に取り組んでいたにすぎないと自分を評価していた。
 だから同じぐらいのレベルであるヒカルがずっと小さい頃から囲碁を学んできたのではないかと思ったのだ。
 だがそんなアキラの予測を平八はあっさりと覆す。
「いやいや、こちらこそ聞きたいぐらいですよ。確か囲碁を始めたのも小学校六年の春ぐらいで、中学に上がってからは囲碁部に在籍してましたかな。誰の影響を受けたのか院生になりたいと言い、その年のプロ試験を受けたと思ったらもう合格している。せめて大学ぐらいは出てほしかったんですがねぇ」
 saiかもしれないと疑ったが、互い戦などとんでもないという平八の言葉どおり置き石をしての指導後でも平八の長考ぶりは偽りなどではなかった。
 ヒカルが囲碁を始めた経過にしてもおそらく真実だろう。
「塔矢先生には是非個人的に指導に来ていただきたいですな。腕をあげてヒカルを驚かせるのも面白いでしょう?」
 平八の申し出にアキラはにこやかに対応しながら、ここにヒカルの強さの秘密はなかったと落胆していた。
 ではヒカルはどこで囲碁を学んだのだろう。平八が言うなら恐ろしい程の短期間で囲碁を覚えあのレベルに到達した進藤ヒカル。
 よく知る高段の棋士達や父達となんら変わりのない手応え……。
 知ろうとすれば知ろうとするほど謎が深まり、アキラの心を支配していく。
 そんな感覚にまるで恋をしているようだとアキラは思わず苦笑した。恋というものを知っている訳ではないが、アキラはヒカルに恋い焦がれているようだと思うのだった。


 それが事実であると知らぬままに……。





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