君の声が聞こえる場所5




 終盤になるとようやく勝敗の行方が見えてきた。
 想像以上に早い展開だったのに午後からは長考も多くなり、アキラは辛うじて勝ったようなものだった。
 心地好い疲労感。
 身体が疲れるという事はなかったが、使いきった脳は高揚感と疲労感をミックスしたようでアキラの心に浮き立たせた。
 幸せだった。
 何度もsaiの碁を見たから判る。
 進藤ヒカルはsaiだ。ネットで見た時のような古い定石はないものの、その石運びはsaiであると雄弁に語っていた。
 進藤ヒカルがsaiだと言うなら、父がわざわざ新初段シリーズで彼を指名した意味が解る。
 やっと見付けたsai。アキラにとって漸く捜し当てた人物とどうして話をしないでいられようか。
「進藤くん、君の囲碁はどこで……。まさか、」
 論理立てて話をしようとしていたのに、焦るあまりアキラは詰問するような口調になっていた。
 まさしく焦っていたのだろう。
 囲碁は心落ち着かせて打つことが出来たが、いざsaiと話をするとなると、何を話して良いのか見当すらつかなかった。
 そんなアキラにヒカルは人当たりは良いがごく普通の在り来りの笑顔をつくり、そして牽制した。
「saiの碁に似てるっていわれますけど、違いますよ。師匠は……、森下九段。研究会ではよくsaiの棋譜を検討しますが。それだけです。塔矢三段もsaiの碁を勉強なさってるんですか?」
 まるで奇遇ですね、と言わんばかりのヒカルの言葉にアキラの表情がみるみるうちに曇っていく。
 ヒカルは塔矢アキラが、ネットで打ったakiraであると気が付いていた。投了後に佐為がその実力を褒めたたえたakira。
 塔矢アキラはakiraであって、今の様子からしても彼がsaiと再戦したがっているのが一目瞭然だった。
 その事実がヒカルの心に黒い染みを作る。
 やはり気付かれたのだと、ヒカルは泣きたくなった。だから打ちたくなかったのかもしれない。
 しかしアキラ程の碁打ちが気付かないはずがないのだ。佐為は消えてしまったけれど、今まだヒカルの碁の中に佐為は生きているのだから。
 気付いてほしかったのか、気付かれたくなかったのか解らない。
 ただ、佐為から受け継いだ碁を打たなければ負けていた。気付かれたくないからと言ってわざと違うようには打てない。
 なぜならヒカルの碁は佐為があったからこその碁なのだ。
 ヒカルの逃げ腰をアキラは察したのかもしれない。
「もし良かったらこの後、場所を変えて検討しませんか?」
 ここから父の経営する碁会所までそう遠くはないとアキラは算段する。
 あそこでなら二人きりにもなれるし、時間さえあれば否定されたsaiに関する事を聞き出せるかもしれない。
「たかだか初段の俺に、塔矢三段が堅苦しいですね?」
 初段の自分と検討しても学ぶような事は何もありませんよ、と言い残しヒカルはアキラに背を向ける。
「初段とか三段とか関係ない。君と、打ちたい」
 引き止めるために思わず手が伸びて、アキラはヒカルの手首を掴んでいた。その突発的な行動にヒカルは何も言わずアキラを振り返る。
 金色の前髪にアキラにはだらしないとしか思えないようなファッション。そしてどこか繊細なイメージを与える面差し。
 そんなヒカルを正面にして、純粋に打ちたいのだととアキラは思う。手合い通知の葉書を受け取った時とは大違いの心境はやはりsaiに関わる事だからか。
 ある日ネットで見たsaiの碁に感銘を受け、その一夏はプロ試験の事よりもsaiに夢中になった。
 そしてヒカルの碁にそれを見たアキラ。一方のヒカルは怯えが交じったような瞳でアキラを見つめ返す。
「どうして……、俺なんかと」
 今になってこんな機会を与えてくれる神様をヒカルは意地悪だと思う。
 まだほんの少し前。
 佐為は行洋と打ちたがりヒカルもまたその息子のアキラと打ちたいと願った。その願いはどちらとも成就したが佐為は姿を消し二度と行洋と打つことはない。
 もう二度と佐為は他の誰とも打てないというのに、ヒカルは自分に与えられた機会を腹立たしく思う。
 自分だけが囲碁を楽しんではいけないような気がして、それでも佐為が生きた証を残したくてヒカルはもどかしくなる。
 佐為を奪うならいっそ何もかも奪ってくれれば良かったのに、神様はこうしてチャンスという甘い果実をヒカルの前にぶら下げている。
 増すのは罪悪感。
 佐為が打てないのに自分だって必要以上には打てないと、悩んだ末にヒカルは結論を出した。
「もう迎えがきてるはずですから。すみません塔矢三段」
 迎えの車が近くのパーキーングに停められているのはいつもの事だ。そしてヒカルが棋院を出てから一人にならないようボディーガードも待機している。
 それはヒカルが小さい頃からずっと変わらない。
 仮にヒカルの予定が変わったところで彼らは文句の一つも言わないのだろうが、断りたい誘いを断る理由にはなった。
 出ていくヒカルの後ろ姿を見つめるアキラは落胆するしかなかった。
 まるで取り付く島もないヒカルの態度は、アキラがsaiの話題を持ち出した事で余計に素っ気ないものになったようで……。
 逃げられたと感じるのはあながち間違いではないはずだが、アキラが見るかぎりヒカルも検討したり一局打ったりする事に対して未練もありそうだったのだ。
 立ち尽くしていたためヒカルの姿は視界から消えていたが、ヒカルを追い掛けて強引に一局打とうと誘えば良かったのだろうかとアキラは悩む。
 ほんの二年前ならそんな行動に出たかもしれないが、二年の歳月はアキラから衝動というものを奪ったようで、ただ立ち尽くすしか出来なかったのである。
 今度いつ会えるだろうか……。そう思うだけでアキラは邪魔をする月日を恨みたい気分になるのだった。






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