君の声が聞こえる場所4




  昼の休憩を告げるブザーが鳴り響く。
 その時になって初めてアキラは今の今まで他人の気配から断絶された世界にいた事を自覚した。
 まるで時間すらも超越したかのように二人だけの世界。
 盤面は予想に反して一手の誤りさえ許されない展開を繰り広げている。
 気が付けば形勢は五分と五分。
 決して侮っていたわけではない。
 アキラにとってどんな一局も疎かにしたことはないし、進藤ヒカルの素行を知って軽い気持ちで打ったつもりはない。
 自分と同じ年のヒカルをプロ意識の無い、たかだか子供の碁だと油断したわけでもない。
 いつもと同じで打ったつもりだったのに、どこか気の緩みがあったのか。
 普段どおりなら、この昼の時点である程度どちらに分があるか読めたが今日は違う。
 予想もつかない石運び。想像以上の手応えに攻防はまだまだ続くだろうと思いつつアキラは盤面を凝視する。
 気が付いたのは偶然ではないかもしれない。
 アキラがふと気が付いたのはヒカルとネットで打ったsaiの碁に共通点が見られるということだ。古い定石ではないのにどこか類似点がある碁。
 手合い通知の葉書を手にした時にアキラはsaiと打った時のような碁を打ちたいと思ったがまさかここでsaiの碁を見るとは思いもしなかったし、またそれを誰が想像できようか。
 まだプロ入りする前の夏休み。ネット碁の世界が急に賑やかになったという父の門下の者の言葉に興味を持った。
 プロの誰かに違いないという噂どおり強い碁だったが真昼間に何時間も打つ姿は、学生かもしれないという噂に信憑性を与えた。
 勿論アキラも興味を持ってsaiを追い掛け、akiraというハンドルネームで打った事もあった。
 投了せざるをえなかった日には、初めて言葉も交わしたしプロ試験初日すら欠席して打った事もある。
 プロの誰の碁とも違う。またプロ以上の強さを持つ謎の人物。アキラはsaiの碁に父と同じ強さを見、そして執着した。
 きっとプロの誰かに違いないし、夏休みの間saiの碁を追い掛け続けた自負もあったから打てばきっとsaiだと判るだろうとアキラはずっとsaiを探し続けた。
 入院中の父がたまたま打った事もあったが、それでもずっと謎の人物だった。
 父が負けて引退を決意したのはsaiのせいかも知れないが、そんな事よりもアキラはsaiと打ちたかったのだ。
 この感動と驚きをどう表現すれば良いだろう。求め続けたsaiが目の前にいるという事実。
 彼は絶対にsaiか、もっとも近い所にいる人物のはずだ。たとえ彼がsaiでなくとも彼がsaiを知っているに違いない。
 ネットでは定石など古い碁だと思ったが、ヒカルの碁にはさらに新しい定石を踏まえた強さが見え隠れした。
 顔を上げると緒方の言葉の通り今時の少年が、今までの戦いの激しさを象徴するように顔を紅潮させ盤面を見つめている。
 前髪が金髪などという悪目立ちしそうな髪型も違和感がなく、新初段の時よりも背が伸び成長したといえども彼はどこか繊細さを残している。
 アキラからはあの手合い通知の葉書を手にした時のヒカルへの感情は見事に消え失せていた。
 都合の良いように解釈してしまうのも碁のせいなのだろうが、こんな碁を打つのだから決して軽い気持ちで碁を打っている訳ではない、彼が手合いをさぼっていたのは何らかの理由があるはずに違いないとアキラは己れを納得させていた。
 緒方も参加した囲碁ゼミナール以来、棋院の仕事には出ていないということだが、出てこれない理由があったに違いない。
 兄弟子の緒方の素行を考えるとヒカルに何か無理強いした可能性もある。
 酒を嗜む緒方が酒の勢いのまま、宴会で何か芸を強要したとか考えればキリがなかった。
 昼食に出たのか自分達の周りの者達はもういない。
 アキラは席を立とうとしたヒカルに声を掛けようとするのだが、意思とは反対に声が掛けられなかった。
 ヒカルの後ろ姿を見送りながら、ただの一言すら会話出来なかった自分が悔やまれた。
 普段は昼食をとらないのだが、一緒に行こうと言えば少なくとも小一時間は話が出来たはずだ。
 目の前に現われたsaiの正体であろう進藤ヒカル。もしくはsaiに近い所にいる進藤ヒカル。
 プロとして姿勢がなっていない。打つ前はそう思ったはずなのに、今は追い掛けずにはいられなかった。
 彼のすべてが知りたい。そんな心を押さえ、午後から相対しようとアキラは気を引き締めるのだった。
 






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