君の声が聞こえる場所3




  手合いの通知が送られてきても、まず最初アキラにはなんの感情も湧かなかった。元から興味のない事に脳の記憶容量を無駄に使う方でなく、クラスメイトのフルネームすら覚えた試しがない。だから『進藤ヒカル』という名前にピンとこなかったのだ。
 それでも何か引っ掛かるものを感じたアキラはその名前を再度思い出そうとして、ようやく父の行洋が珍しく新初段の相手をした時の相手だったと思い出す。
 覚えるに値しない碁だった。
 一手めに20分もかけたうえにめちゃくちゃな碁だったのだ。それから確か父の行洋が倒れた日の手合いの相手が彼だったはずだ。
 他にも覚えがあるような気がしたが、どうでも良いと脳が判断した事は記憶の奥底の未整理な場所に押し込められているようで、進藤ヒカルの名を探しても見つからなかったのである。
「ほう、アキラくんが進藤と打つのか」
 手合い通知の葉書を持ったままじっと動かないアキラの手から緒方が葉書をひょいと奪い取る。
 その紙面に書かれた名前を見て、少し驚いたように片眉を上げてみせた。
 兄弟子の彼が何故進藤という初段などを知っているのかとアキラは緒方を見つめ返す。トレードマークの白いスーツは彼を碁打ちのようには見せてくれないが、彼が結構下の者の面倒をよく見る世話好きだとアキラは知っている。
「緒方さん、進藤初段をご存じなんですか?」
 高段位の彼が門下でもない進藤ヒカルと知り合いになるような機会は無いように思えるのだが……。アキラのそんな疑問に緒方がサラリと答える。
「五月頃に一緒に棋院のイベントでな。それから三ヵ月近く無断で手合いをさぼっていれば嫌でも進藤の名も売れるさ」
 緒方の言葉の中のワンフレーズがアキラの内に黒い染みを作るように広がる。
 無断で手合いをさぼるなどというアキラには考えられない愚行を平然と行なえるような人物が次の手合いの相手。
 目を瞑っていても負けるとは思わないが、決して負ける訳には行かない。
 どれだけ大勢の人間がプロを目指し、そのハードルの高さに夢を諦めたかアキラは知っている。
 だから碁を疎かにするヒカルの態度が許せなかったのだ。
 アキラが決意を固めているのを余所に緒方はなおも続ける。
「あの日から休みだしたから、こっちが虐めたとかセクハラしたとか散々追及されるしな。確か院生出身で、アキラくんと同じ年じゃなかったか?」
「……興味ないので、知りません」
 ようやく紡ぎだした言葉はアキラの心とは正反対だった。興味ないと言いつつもアキラの内でヒカルに対する嫌悪がどんどんと膨らんでいく。
「まぁそうだな。アキラくんとは正反対のタイプじゃないかな。彼は今時の子だよ。そういえば、塔矢先生が入院したときに見舞いにきてたか」
「そうですか」
 父の行洋とどれだけ接点があろうと、父と自分は別の人間だ。だから進藤ヒカルという人物を推し量る物差しは囲碁しかない。
 プロの碁打ちという選ばれ限られた者の中で進藤ヒカルの態度は許されるものではないと断言できる。
 アキラは思う。そんな者となど打つに値しない。ましてや覚えるなど以ての外。おそらくこの進藤という人間と打ったとしても、楽しんで打てる事はないだろうと。
 プロの世界は厳しいのだと思い知らせ、力でねじ伏せてやると決意した瞬間にアキラは自分の傲慢さが鼻に付いた。
 傲慢…、なのだろうかと考えて、これが何年も碁を極めようとしてきた努力に裏付けされた力に起因するものだから傲慢ではないのだと自己評価する。
 小さい頃から子供らしい遊びなどせず、もちろんしたいとは思わなかったが、碁に打ち込んできた結果なのだ。
 今時の子と緒方が言ったが、今時とはどんな事なのだろう。
 そうアキラは考えて、いかに自分の知識が乏しいのだろうかと思うが、碁を打つのに相手の人となりなど関係無いと思いなおす。
 碁に対する態度姿勢だけで充分進藤ヒカルを評価出来、そう考えるとアキラの中のヒカルの存在は尊敬に値しないどころか軽蔑するに足りるのだ。
 適当に打ち、囲碁を軽んじているヒカルに対して決して手は抜かない。全力で打って囲碁とは厳しい世界なのだと彼に思い知らせてやろう。
 たとえ相手が初段であろうと侮ってかかってはいけない。ネット碁で見ず知らずの者と打った時も不世出の強者も大勢いるとだと思い知ったのだ。
 saiというハンドルネームしか知らないが、あの手応えは高段者以上。
 進藤ヒカルにそれを求めるつもりはないが、願わくばあのsaiの時のように心踊る碁が打ちたいとアキラは手合い通知の葉書を片付けた。





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