君の声が聞こえる場所2
初めての対局はプロになって、夏を無駄に過ごしてしまった後だった。打ちたい相手だったがむしろ打ちたくなかったのかもしれない。 囲碁を覚えて、塔矢アキラを知るまでに時間はかからなかった。 塔矢行洋の名前を知らない碁打ちはいないが、その息子もいつプロ入りするのだろうかと関係者の間で持ちきりだったらしい。 塔矢行洋自身もそして門下の者も口を揃えてアキラを有望視したが決して身内贔屓でなかった。 それはアキラがプロ入りしてから証明されたが、幼い頃から碁になれ親しんだアキラの強さは連勝記録でも明らかだった。 そんなアキラをヒカルが知ったのは佐為に出会ってからだ。佐為と出会わなければ碁などというものに触れる機会すらなかっただろう。 しかしヒカルは佐為に出会ったのだ。 きっと誰も信じてはくれないだろうが、ヒカルが見付けた古い碁盤に彼は宿っていた。今思えば囲碁の神様に縛り付けられていたのかもしれないが平安時代を生きた藤原佐為は江戸時代に本因坊秀策として生き、今またヒカルの中に蘇ったのだ。 当時のヒカルには、誘拐を懸念して学校へ行くにも毎日送り迎えがつき、自由というものは皆無。 遠足や修学旅行にすら警備の者がついてくるのだから、自然とヒカルは普通の生徒達と距離を置くようになっていた。 唯一幼なじみである藤崎あかりは別だったが、教師すらもヒカルを特別扱いしたのだからヒカルの孤独はますます深くなっていった。 だから佐為に出会ったヒカルは、誰にも咎められずにいつでも遊べる友人を手に入れたような感覚だった。 たとえ遊びが囲碁だけでも、家の中で唯一の話相手として存在するだけでヒカルは満足だった。 そして佐為も新しい世界に順応しつつも、囲碁を極める機会を与えられたことに感謝した。 春が過ぎ夏が過ぎて……。その頃はまだ単なる暇つぶしでしかなかった囲碁。話相手の佐為が喜ぶからという理由で基礎を覚える程度に留まった囲碁。 その頃だろうか。 佐為が新聞から『塔矢行洋』という名を覚え、頻繁に口にするようになったのは。 祖父に頼み囲碁雑誌を定期購読するに至って、佐為の喜びは尋常ではなかったようにヒカルは記憶している。 『この者の碁は本当にすばらしいのです』 目を輝かせながら佐為が賛辞の言葉を綴るのも当たり前だった。塔矢行洋という碁打ちは何冠ものタイトルを持っていて名人と呼ばれる人物なのだ。 『いつか打ちたいものです……』 佐為がそう言いながら対談なども好んで読んだので、いつしかヒカルも囲碁の世界や事情というものにも精通していく。 ただ、囲碁を遊び程度にしか思っていないヒカルの碁打ちとしての才能はまだまだ眠ったまま。 そして。 家からもっとも近くということで葉瀬中学校にヒカルが進学した頃から囲碁が生活の大半をしめていく。 実力重視の囲碁の世界は、ヒカルを家という背景から隔離して、単なる『進藤ヒカル』として迎えてくれたからだろう。 自分では相手にならないと悟ったヒカルが佐為にネットオンラインの囲碁を与え、その強さをヒカルは単なる強い敵を倒していく攻略ゲームのように楽しんだ。 奥の深い知的なゲームをヒカルが面白いと思えるまでやや日数を要したが、そこからのヒカルはまるで別人のように囲碁を楽しんだ。 強くなっていく自分が解るから楽しいし、囲碁が面白いから日々研鑽も出来た。 プロの碁打ちの中に入っても引けを取らないだろう佐為という師匠に恵まれヒカルはその才能を目覚めさせていく。 ちょうどその頃だったか。 『塔矢行洋にはヒカルと同じ年の御子息がいらっしゃるようですよ。塔矢アキラというのですが、プロ試験に合格したようです』 何気ない会話の中で、佐為の言葉はさらりとヒカルの耳を通り過ぎたが、気が付くと塔矢アキラの事が気になった。 同じ年でプロ試験に合格したからに違いないと思っていたのだが、新初段シリーズの棋譜を見たときは震えが走ったものだ。 何故なら塔矢アキラの棋譜は佐為がネットで打ったakiraを彷彿とさせたからだ。プロ試験初日に不戦敗しているのも佐為とakiraが打った日と同じ。 それをヒカルが覚えていたのは佐為が打った後に感嘆混じりに誉めていたからだが、その頃からヒカルの中で遊びの一つだった囲碁に目標が生まれた。 プロになれば塔矢アキラと打てるかもしれない。そして佐為も塔矢行洋と打てるかもしれない。 もうヒカルの周りには碁を打ってヒカルと切磋琢磨出来る人間は数少ない。これがプロの世界だったらどうだろう。 自分より強い者がいる世界。ネットでは強い者も弱い者も混在するが、目指すのはプロ試験を合格したものだけが生きる勝負の世界。 思い立ったヒカルの行動は早かった。 祖父に頼み、もう既に締切を過ぎた院生試験を受け、合格したヒカルは院生として経験を積み、そしてプロ試験を見事突破する。 新初段シリーズで佐為を塔矢行洋と打たせてやることも出来たことだし、いつか自分も塔矢アキラと打つ機会も巡ってくるだろう。これからプロの世界を二人で楽しみつつ戦っていくのだとヒカルは未来を期待した。 順風満帆の未来は、それまで何不自由なく育てられてきたヒカルにとってごく当たり前のように約束されていた。いや約束されていると思っていた。 そんな中で別れも言わずに突然のように佐為が消えたのは五月の風が薫る、とある晴れた日の事だった。 約束されていたはずの未来が幻だったと知ってヒカルは未来を期待するのを止めた。 碁を止めることも考えたが、佐為の碁を受け継いだ自分が碁を止めてしまうことは佐為を本当に失う事になると、ヒカルがプロの世界に復帰したのは夏も終わろうしていた頃だった。 そして……。 初めての対局はプロになって、夏を無駄に過ごしてしまった後だった。打ちたい相手だったがむしろ打ちたくなかったのかもしれない。 塔矢アキラの碁を楽しみにしていたのは自分だけではなく佐為もその一人だったし、自分だけアキラと打てるというのはとても心苦しかった。 この痛みをずっと抱いていく事が佐為が存在した証なのだが……。 |