君の声が聞こえる場所17
ヒカルの後ろ姿を追い掛けながら、アキラはヒカルの顔色が悪いような気がしたのは見間違いだったのか不安に感じていた。 あの日から二週間も会えなくて。いや避けられていたと言っても過言ではないだろう。 ヒカルが一体何を考えていたのかは解らない。それとも自分が何かマズイ事でもしでかしたのだろうか。 心当たりがあるとすれば、碁を途中で投げ出してヒカルを押し倒してしまった事だったが、これは度々あった事だしヒカルの怒りに触れたとは思えない。 しかしそれから会えない事を考えればヒカルが臍を曲げているのは確かだ。 だがそれだけで二週間も引きずる程、機嫌が悪くなるのか。 高原三段などヒカルの実力をもってすれば、あんな接戦での勝ちにはならないはずだが、碁にも集中出来ない程腹を立てているのかもしれない。 エレベーターを待っていたヒカルの隣に立ったアキラはヒカルの横顔を見つめる。 「……なんだか、君らしくない碁だった」 碁の中に迷いが見えたと思うのは気のせいではないだろう。 ずっと打っているアキラだからこそ解るヒカルの迷い……。最良の一手を探すだけではない、もっと別の迷いがヒカルの碁の中にあった。 「あれが俺の碁だよ。『君らしくない?』ってなんだよ。別人の碁だとでも言うのかよ。言っとくけどsaiの事聞こうと思っても無駄だぜ」 首を傾げるようにしたヒカルに見つめられる。その面に浮かぶのは快活な作りの顔立ちからは想像も出来ない穏やかで美しい笑み。 まるで先程感じられた迷いなど微塵にも感じられない、悟りを開いたような美しい笑みなのに、アキラは拒絶されているような感覚をその身に感じていた。 きっとこの美しい笑みはヒカルがわざと作った壁なのだと思うと、アキラはもどかしくなる。 ヒカルはこうして他人を拒絶してきたのだろうが、自分まで受け入れられていないと思うとアキラは悔しかった。 「saiは関係ない。君がsaiだと考えたこともあるが今は違う。君は君だ。僕はただ君が不調に悩んでいるなら、と思っただけで……」 時折saiとも思える一手もあったがそれだけではない。ヒカルには申し訳ないがsaiはもっと手の届かない場所にある。 『彼』かどうかは解らないが、saiの碁はある意味完成された碁、もしくは完成に近い碁だった。 だがヒカルは違う。 決して稚拙という訳ではない、言うなればヒカルは発展途上……、成長している途中なのだ。 ヒカルは乾いた土のように、新しい知識を貪欲に吸収している。そしてそれを生かしているのはまさしくヒカルの実力に違いない。 だがアキラが感じたように、今のヒカルは迷っている。 黙ったままエレベーターに乗り込んだヒカルは、行き先を押す前に下を向いたまま口を開いた。 「……なぁ、当分会うの止めようぜ。俺が今感じている手応えに一々、『俺らしくない』とかって水をさされたくないんだ」 ヒカルの言葉にアキラは愕然とした。自分はヒカルにとって調子の良いときにだけ相手をしてやっているだけの存在なのか……。 こうして悩んでいると傍目から見ても解る時に力にはなれないのだろうか……。 「進藤、僕達は何があってもどんなスランプの時でも一緒に打ち続けるべきだ」 そうする中でなんらかの打開策もみつかるだろう。 碁は一人では打てないから、ヒカルの選ぶ相手が自分であってほしいとアキラは願う。それは依存ではなく互いに支えるという事……。 だがヒカルはそんなアキラの言葉など聞きたくもないというようにエレベーターの行きボタンを力任せに叩きつける。 「俺には俺の道もやり方もある。どうして俺の前に立ちはだかるんだ、お前にそんな権利はない」 もうヒカルはアキラの顔を見ることはなかった。 下へと下りていくエレベーターの中でヒカルは足元だけを凝視していて、やはり拒絶されているのかとアキラは心許なくなってくる。 「僕達は恋人同士だろう。辛いときには助け合って、切磋琢磨して……」 それがアキラがヒカルに望む姿だ。 閉ざされた二人きりの世界を望んでいる訳ではない。ただ互いに一番の理解者であり近い者でありたいだけ。 「ちょっと待てよ、お前と俺はライバルだろ。それ以上でもそれ以下でもない」 「進藤……?」 ヒカルの言葉に驚かされたアキラはそれ以上言葉を探せなかった。 薄々と二人の間に温度差があると思っていたが、こんなにも明確に突き付けられると眩暈すら感じられる。 確かにアキラもヒカルを恋人というつながりより碁打ちである事のつながりを重視していて、ヒカル自身にも恋をしていたのだと気が付いたのは最近だった。 男同士であるのにこんな関係になったからにはヒカルもアキラと同様の感情があると思っていた。 そうでなくてどうして男と交わる事などできようか。 非常識の中での常識を求めていたアキラ。 しかしヒカルは違ったのか……? 「……僕は君を手に入れた気になっていたのか?」 「俺を手に入れただって?」 アキラの言葉にヒカルが顔をあげる。否定し、嘲るようなヒカルの表情から、アキラは馬鹿にされたのだと感じていた。 「……だって君は僕に抱かれたじゃないか」 ヒカルを所有物のように思うのは間違っているのだろうが、今更拒絶するなら何故あの時に受け入れたのか。 すべてはヒカルの気紛れだったのか? それとも、ヒカルは何かに怒ってこんなゲームをしかけるのか? もう一度自分が何をしでかしたのかと考えてアキラは何も思い浮かばずに、ただヒカルを見つめる。 数瞬の沈黙の後ヒカルはポツリと呟いた。 「あれはお前と打つための犠牲。代償なんだよ」 『あれ』と言うのがセックスだとは、ほんの少しだけ頬を赤らめたヒカルの表情が現していた。 「訳が解らない。どうして僕と打つために犠牲を払わなければならないんだ」 つまり。 犠牲というからには、ヒカルは望んでセックスしているわけではないのだとアキラは絶望的なまでのショックを受けていた。 これが温度差の理由だったのだ。 ヒカルはアキラとの関係を望んでいなかった。 ただ打つための代償としているのだと言うが、でも自分と打つのにどうして犠牲を払わねばならないのだ。 理由が解らなかった。 何を問いただせば良いのかも解らなくて、アキラは下へと降りるエレベーターの中でその重力に身を縛られていた。 『チン』と目的の階に到達したことを報せる機械的な音が耳に届くと同時にヒカルの表情が苦悶に歪む。 そして扉が開くと共にヒカルは、 「いい加減俺を見ろよ、塔矢」 と、一言だけ言い残して走りだしていた。 怒ったような、それでいて涙を堪えるような表情のヒカルが何を考えているのか解らなくて、アキラはただ立ち尽くすしかなかった……。 |