君の声が聞こえる場所18





 当て所もなく、ただアキラから逃げるためだけに走っていた。
 迎えにきていた者達にはここで待っていろとだけ告げて、ヒカルは人込みに向かって走る。
 『ヒカル』を好きだと言うアキラ。
 信じたい気持ちと信じられない気持ちが同じ分量で交ざりヒカルを責める。一歩一歩踏み出す足が痛いのは、アキラから離れていく痛み。
 苦しさと切なさで心が痛い。まるで無理矢理に引き裂かれているような感覚……。
 目を閉じればアキラの瞳を思い出す。
 静かな湖面のような凪いだ表情の奥底に秘められた情熱に灼かれ、濁流の中の木の葉のように翻弄される自分。
 アキラが自分に夢中になればなるほどヒカルは心の隙間が埋まっていくような錯覚さえ感じられた。
 まるで自分を求められているかのような幸福に酔い、それでも次の瞬間にはそれが幻だと気付く。
 どんなにアキラがヒカルを求めようと、それは佐為に対する言葉なのだ。
 再びチクリと胸を刺す痛みにヒカルは眉を顰める。
 きっとこれは佐為を消してしまった罰に違いない。
 アキラと打ちたいと願い、アキラに求められるまま身体を重ねたけれど。自分はアキラの『特別』になれないどころか、アキラは今だに佐為を見ている。
 むしろ初めはそれでも良いと思っていた。
 佐為を消した罪滅ぼしに佐為から受け継いだ碁をより高処へと研鑽するために、アキラを利用するのだと。
 稚拙な自分を佐為だと思い、尊敬し愛してくれるのを、利用しているだけだと思っていた。否、思い込もうとしていた。
 本当の心を隠し、佐為が残した碁だけを高めていくのだと決心し、例えヒカルが佐為でないとアキラが気が付いても背徳の行為によりアキラをがんじがらめにしておけば良いと考えてきた。
 そして身体に受ける痛みは佐為を消してしまった贖罪の代わり……。
 アキラの望むような碁を打てない自分が、身体を差し出す事でアキラとアキラの碁を手に入れ、アキラにとっての特別な存在になるのだと割り切っていた。
 それなのに。
 これ以上アキラを求めないと決心していたはずなのに……。
 心はいつしかヒカルの存在意義をアキラの中に探してしまっていた。碁の中にヒカルを探してしまうのと同じくアキラの中のヒカルを探そうとしていた。
 走るのを止め、周囲と同じように歩みはじめたヒカルの腕をアキラが捕まえる事が出来たのはほとんど偶然に近かった。
 無言のアキラとずっと立ち止まっている訳にもいかず、二人は最寄りのファーストフード店の隅へと陣取る。学生達で賑わう店の喧騒が妙に居心地が良い。
 ジュースの氷が解けていく中、アキラは何も聞かなかった。ただ傷ついたような瞳でヒカルを見つめている。
 話さないでおく事も出来ただろう。誤魔化す事も取り繕う事も簡単なはずなのにヒカルは促されるかのように語り始めていた。
「俺さ、本当は消えてしまいたかった。俺が消えてしまいたかった。でも消えたのは佐為で。それでもお前が佐為を追い掛けるから、俺は俺の中の佐為を消そうとした。そうすればお前が俺から離れていって楽になれると思ったんだ」
 支離滅裂で意味を汲み取れない言葉の羅列にアキラは怪訝そうに問う。
「君は僕が迷惑なのか……」
 アキラにしてみればどうしてsaiが自分達に関係するのか全く理解できなかった。
 アキラがヒカルに聞きたいのは、どうして好きでもないのに身を許すような関係を続けてきたのかという事と、ヒカルの真意。
 そして二人は気持ちはどこにあるのかという事……。
「迷惑? 違うよ。求められていると錯覚してしまう自分がイヤなんだよ」
 迷惑なはずがない。アキラに憧れてこの世界に入ったのは自分だったのだ。佐為の力を借りてアキラの視界に止まった事を喜びつつも佐為に嫉妬した。
 アキラが佐為を求め続ければ良いと思い、その感情を利用しようとしていたのに、今はそれが辛い。
 確かにアキラが佐為を求める気持ちは痛いほど判る。
 だがしかし、自分のアキラへの想いは伝える事も出来ずに燻っている。燃え上がることも消えることも許されない想い……。
 すべては佐為を消してしまった自分が悪いのだろう。
 だから……。
「俺、お前と打つごとに、お前と打つために罰を受けているんだ」
 佐為を消してしまったから……。
 そして佐為を求めるアキラを騙したから……。
 ヒカルのそんな言葉にアキラはますます謎を深めていた。
 アキラにはヒカルの考えが解らないのだから当たり前なのだが、説明もされずに理解出来るような内容ではなかった。
「罰だって? 僕達の行為を君は汚れているとでも言うのか」
 だからアキラがヒカルの言葉の中で引っ掛かったのは『罰』という言葉だった。
 『罰』というからには苦しく辛いというイメージがあるが、ヒカルが二人の関係を『罰』だというなら、アキラが懸念していたとおりヒカルはアキラとの関係を完全に否定したという事になる。
 ヒカルはアキラの事を何とも思っていなかった。それどころか辛く苦しい事と同様だったなんて……。
 わざわざ追い掛けてヒカルの真意を聞こうとしていた自分自身が馬鹿らしくなる。
 こんなにもヒカルを求める想いは一人で空回りをしていて、それをずっと気付きもせずに浮かれていた。
 アキラは立ち上がり、ヒカルに別れを告げようとしていたその時、ヒカルが言葉を紡ぐ。
「汚れてる、か……、どうだろう、確かにそうかもしれない。でも不思議なんだよ。お前に抱かれて自分が不幸だと思わないといけないのに、お前に抱かれて幸せなんだ。お前は俺の中の佐為を求めているのに、『ヒカル』は幸せなんだ。どうしてなんだろうな……」
 窓の外に視線を移したヒカルの瞳が涙で潤んでいるように見えたのは幻だろうか。だがアキラは立ち上がる事をやめて、再びヒカルに向き合う。
「ねぇ、それは僕を好きだからだと考えられないか」
 『罰』というなら、拒めるはずの行為を受け入れたのはそれなりに理由があるだろう。アキラはそれに一縷の望みを見いだしていた。
「そうさ、お前を初めて知ったときからお前の碁に惹かれ、いつのまにか好きになった。でもお前が好きなのは佐為で……、俺がお前を愛していると知られたらもう二度と会えないと思った」
 自分が初めにヒカルの中にsaiを見た事がそもそもの間違いだったのだろうか。何度言ってもsaiを引き合いに出すヒカル。
 だがしかしアキラは何度でも説得するつもりだった。自分が求めるのは進藤ヒカルという存在だということを……。
「僕は言っただろう。君が好きだって。君の中に見え隠れするsaiじゃなくて……。僕が好きなのは、今、目の前にいる進藤ヒカルだよ。確かに碁がきっかけで知り合ったし、もっと君を知りたいと思ったよ。でも僕は例え碁がなくても君を好きになったはずだ」
 アキラの言葉にヒカルが顔をあげる。
『例え碁がなくても僕は君をすきになったはずだ』
 その言葉とともに漸くアキラの気持ちがヒカルの心の奥に届いていく。碁がなくても、たとえばどこか別の世界の人間だったしても、アキラはヒカルを選んでくれる。
 そんな自信がヒカルの凍っていた心を内側から溶かす。
「二人でずっと打ち続けよう」
 人目を憚る事なくアキラがヒカルの手を握る。ずっと碁石を握り続けたその手に包まれヒカルは遠い未来を視た。
 研鑽するたびに新しい碁になる。打てば打つほど神に近付いていく。それで佐為は許してくれるだろうか。
「俺、お前とずっと打ち続けたい」 
 佐為の碁に憧れているのではなくて、ヒカルの碁とともに生き続けたいというアキラの想いを受けとめて、ヒカルは漸く自信を手に入れていた。
 佐為は許してくれるだろうかと二度目の問いにも、消えてしまった佐為が応える事はなかった。
 例え許されなくとも、どんな形でも良いからヒカルはアキラの側にいたかった。
 佐為が打つなというなら、何度でも謝って許しを請うから……。
 すべてを手に入れた自分を欲深いとヒカルは思う。
 けれどこれが本当の気持ちなのだ。
 アキラの側にいたい。
 そして一緒に碁を打ち続けたい。
『佐為、ごめんな』
 心の中で謝ったヒカルは吹っ切れたように明るい笑顔をアキラに向けた。
「俺、お前が好きだ。だからずっと一緒打ち続けよう」
 互いに握り合っていた手を、今更ではあるが恥ずかしげに離す。
 アキラにはヒカルがどのような心境だったか知る術はないが、ヒカルの笑顔が自分に向けられている事で満足だった。
「それじゃあ早速……」
 もう二週間も満足に打っていない事を思い出したアキラは時間が勿体ないとばかりに時計を見る。
 まだまだ夕暮には早い。
「どこか碁会所でも行くか?」
 この周辺ならどこにでもあろうが、顔が売れているからにはやはり棋院に戻った方が良いだろうかと提案するヒカルの言葉をアキラが遮る。
「僕の家は両親が留守だから、進藤さえ良ければ誰にも邪魔されず心置きなく打てるんだが」
 それこそ泊まってくれれば一晩中でも打つことが出来るだろうと、二週間分のブランクを埋めるのだと意気込むアキラに思わずヒカルが笑う。
「ほんとに打つ気があるのかよ」
 親が居ないから来ないかと誘うのは下心が丸見えだと、からかうヒカルにアキラは一言も弁解出来ず口を噤む。
「……」
 勿論そのつもりはなかったのだが、『背徳の行為』を望んでいないと言えば嘘になる。
「君がそんな冗談を言うとは思わなかったな」
 苦笑いをしてアキラが席を立つ。そしてヒカルに手を差し出して『一緒に行こう』と笑いかける。
 急速に縮まった二人の距離。
 それはやはりヒカルの内にあった壁が、アキラによって溶かされたからであろう。
 純粋に向けられる好意をやっと信じられるのだと感じ取ったのか、ヒカルは無意識に微笑む。
「これからもさ、ずっと打ち続けようぜ」
 ヒカルの言葉にアキラは勿論だと言わんばかりに頷き返す。


 互いの声が聞こえる場所で。
 二人はこれからも手を携え歩んでいく・・・。






 本当に長い間お付き合いいただきありがとうございました。
 連載開始から約一年(・・・)。33万打記念という事でしたが、本当に書いてて楽しいリクエストでした。

「アキラさんは原作通りで、ヒカルが良家のご子息という設定。ヒカルの性格も、復活した後に門脇さんと打った時のような感じの透明感というか静かさというか、佐為が消えた悲しみを飲み込んで懐が深い感じ。(一部省略)悩んで苦労するアキラさんと、ふっ切れちゃって妖精(笑)のようなヒカルの話」

 改めてリクの内容を確認してみると、かなり開きがあるような・・・(反省)
アキラさんはやはり暴走タイプだし、ヒカルにもなかなかしつけが行き届かなくて。五針様、高那の力量不足をお許しください。



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