君の声が聞こえる場所15




 いつか問い質さねばなるまいとアキラは常に機会を伺っていたのだが、行洋が海外に渡航してから塔矢門下での研究会は回数を減らしたので、結局アキラが緒方に会えたのは棋院でのロビーとなった。
 いつもと同じデザインの白いスーツを見間違えようもなくアキラは緒方へと近付く。
「緒方さん、この間進藤と一緒に車に乗ってませんでしたか」
 タクシーに乗ったところを見かけましたというと、当初はとぼけようとしていた緒方も頷き返す。
「あぁ、あいつと打つ約束をしてたんでな」
 いつ、どこで、どうしてそんな約束をしたのかアキラは気にかかる。
 アキラ自身ヒカルと打てるようになるまでかなりの時間を要したのに、どうして他の人間はそんなに簡単にヒカルと打つ事が出来るのだとアキラは気分を害していた。
 そんなアキラの百面相を緒方は面白いものを見たとばかりに興味深く観察する。碁以外退屈な日々を過ごす緒方にとって新しい発見だった。
「おっと噂をすれば、だ」
 ヒカルの姿を見付けて緒方が手招きするとヒカルが子犬のように走り寄ってくる。アキラが立っていただけなら無視されるかもしれない場面だ。
「緒方先生こんにちは。塔矢、どうしたんだよ。こんなところで立ち話かよ」
 人懐こい笑み。明るくて、それでいて礼儀正しいので先輩棋士達から好かれるようになってきた進藤ヒカルに緒方も表情を緩める。
「お前の話をしていたんだ」
 ヒカルに向かう緒方は愉快そうに反応を楽しんでいる。
「どーせ俺の悪口でしょ、緒方先生」
「さぁ、どうかな。じゃあなアキラくん」
 ヒカルに、聞きたければアキラくんに聞けば良いと言い残し、アキラには頑張れよなどと意味深な言葉を残して緒方は颯爽と歩き去る。
「……緒方さんとは親しくしているのか?」
 聞いたところでどうなる訳でもないがアキラは聞かずにはいられなかった。自分よりも親しいとか同じぐらい親しいとかヒカルの口から聞きたくは無かったが、聞かずにはいられなかったのだ。
「親しいって訳じゃないけど、俺が院生試験受けれるようになったの緒方さんのおかげだってじいちゃんから聞いてたし」
 色々と世話になったんだよと言うヒカルにアキラは聞き流す言葉を失っていた。
「わざわざ車にまで乗って?」
 とことん突き止めなければ気が休まらない。どこに行ったのか、何をしたのか。碁を打ったのか打たなかったのか。打ったのなら何局打ったのか。アキラの頭の中に質問事項が山のように浮かぶ。
 そんな中で、唐突に脳裏に浮かび上がったのは緒方の身体の下に組み伏せられるヒカルの姿だった。
 そんなはずはないと否定しつつも、自分もヒカルの身体を蹂躙しているという事実もあり、唯一の人物であるという自信が揺らぐ。
「……変な塔矢。一体何が言いたいんだよ。あっそういえば和谷のところで若手だけでリーグ戦しててさ、当分そっちにも顔出すから」
 だから頻繁には会えないというヒカルにアキラはもどかしくなる。これだけ近くにいるのに、余計に焦りを感じるようで……。
「僕と打つ時間さえ作ってくれるならそれでいい」
 本当は引き止めたいと思いつつもアキラは物分かりよく応じていた。度量の狭い、嫉妬深い男とは思われたくなかったのだ。
 決してヒカルは自分の所有物ではない。一個の独立した個人なのだとアキラは必死で己に言い聞かせる。
 碁さえ打てれば満足なのだ。いや満足しなければならないのだ。
 アキラの揺れる心を余所にヒカルは腕時計で時間を確かめつつ淡々と述べる。
「打つならちゃんと打とうぜ。この頃のお前は俺と打っていても別の事考えてるだろ」
 何気なく言われただけに、余計にヒカルの言葉がアキラの心に深く突きささる。
 図星だったのだ。
 碁石の並びだけに集中すべきなのに、いつの間にかヒカルの身体へと意識が飛びそうになるのを止められなくなっていて……。
 男同士のあってはならない行為。
 知識だけはあったが、興味があった訳ではない。
 若手の碁打ちだけだからとたまに誘われる研究会には大抵交流会と称した飲み会などがあり、アキラは未成年だったけれども付き合い程度には顔を出していた。
 ある日の酒が入った時の会話で、男同士のセックスは……と、相応しくない会話がなされていて、アキラは興味もなく聞き流していたのだが、あの時はまさか実地で経験するとは思ってもいなかった。
 聞いていて良かったのか悪かったのか……。ヒカルとこんな関係になった今でもどこか否定する自分がいる。
 ヒカルに対しての行為は肉欲だけでないと、いっそ無くても構わないと思いたいのにヒカルを前にするとそんな考えが飛んでしまうのだ。
 ほんの数か月前は碁が打てればそれで良かったのに、今は盤面以上にヒカルが気になった。
 ヒカル自身を好きだと気が付いた時から、もっともっとヒカルを欲しくなっている。その若木のようなしなやかな肉体に己を埋めて激しく突き動かしてみたい。あられもない姿のヒカルを思う存分に蹂躙し、その口から甘く漏れ出る吐息を独り占めしたい。
 次から次へと枯れる事無く湧き出る欲望をアキラは振り払いヒカルへと向き直る。
「それはこの頃の君は付き合いが良くなって出歩いてばかりいるせいだ。僕と打つ時間が減るのは我慢できない」
 碁を打つのだけが目的だと装うのは辛かった。身体だけを目的としているのだと思われるよりは良いが、アキラはどちらをも求めていたのだ。
「これでも優先させてるんだぜ」
 几帳面に入力された携帯電話のスケジュールには隙間無く予定が組み込まれていて、数少ないフリーの大半はアキラと打つ日となっていた。
 今のアキラにとって、ヒカルからの『優先している』という言葉は本当に嬉しい一言だった。
「まぁ、お互い碁バカだよ」
 寝ても覚めても碁が頭から離れないというならヒカルの言うとおりだろう。しかし、その言葉の中に嫌味が含まれてようとは知らぬアキラであった。
 ヒカルの家へと移動して、いつものように碁盤を前に座る。
「ほら握れよ」
 下から見上げるような視線。ヒカルにはそのつもりはないだろうが、視線には色香が漂う。
 他の誰がヒカルの内にこの色香を見付けただろうかと考えるだけでアキラは身が切られるような思いがした。
「それより、進藤……」
 握りかけた碁石をアキラは手放し、代わりにヒカルの手首を掴む。
 周りが見えなくなるぐらいアキラはヒカルに恋をしていると気が付いていた。
 碁に対して真剣に取り組むのと同じくらい、天秤にかけられぬほどアキラはヒカルに恋していた。
 ヒカルの打つ碁に恋をし、そしてヒカル自身にも恋をしていた。
 碁を打つのもヒカルを求めるのも同じくらい神聖な気持ちだったし、アキラは何よりもヒカルを優先した。ヒカルと打つのを優先した。
 つまりアキラはヒカルの唯一の存在でありたかったのだ。ただ親しいだけの友人よりはヒカルを恋人と思いたくなりはじめて……。
 キスをしても拒む事はない。
 抱き締めても押し返す事はない。
 抱き締め返された事もなかったが、こうしてヒカルが応えてくれるのは、ヒカルもまた同じ気持ちだからだと納得しようとしていた。
 しかしその根拠無き自信も今になって揺るぎ始めていた。




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