君の声が聞こえる場所12





 震える身体をヒカルはどうすることも出来ずにいた。
 勝手に期待して、勝手に傷ついて。
 アキラが悪いわけではない。
 佐為が存在した事も悪いわけではない。
 あえて誰に罪をなすりつけるかと言えば自分だろうとヒカルは力なく笑う。それでもどう行動すれば良かったのかははっきりとしなかった。
 佐為さえいればアキラの期待にも応えられただろう。『ヒカル』は佐為の影でささやかな満足を得ていれば良かったのだ。
 これが、いつしか佐為を優先するよりも碁を打つことを優先させた自分が受けるべき試練だと、ヒカルは甘んじる覚悟でいた。
 一方のアキラはヒカルが嫌悪を感じているだろうと考え、好きの意味を補完する言葉を足していく。
「違う。進藤、君が何に怯えているかは知らないが、僕は君という人間に惹かれているんだ」
 性急に事を運んでいるという自覚がアキラにあれば良かったのだろうが、アキラは感情のままに自分の考えをヒカルに押しつけていた。
 哀れなことだがアキラは必ず理解されると考えていたに違いない。
 これまで誰にも執着する事などなかったアキラが、ネットで追い掛けたsaiをヒカルに見た瞬間から、実在するヒカルの方がsai以上にアキラの心を占めたのだ。
「ずっと一緒に碁を打ちたい。ずっと一緒に居たい。この気持ちが恋だというならそうだろう。僕は君が好きなんだ」
 他人に執着した事のなかったアキラが恋と結びつけたのは短絡的だったかもしれないが、まるで恋人のようにヒカルを独占したかったのだ。
 ヒカルも。そしてヒカルの碁も……。
「ずっと恋のようだと思っていたんだ。ずっと君の事ばかり考えていて誰よりも君の近くに居たかったから。だけど今夜気が付いたよ、君が好きだって……」
 証明してやるとばかりに、間髪いれずにアキラはヒカルにくちづけていた。ただ唇を押しつけるだけのぎこちないキス。
 二人の間にやけに熱い空気が満ちていた。先にヒカルが交わした視線を足元に落とす。
 殊更ゆっくりと落とされた視線。
 それまでアキラはヒカルに対して明確な欲望を感じてはいなかったが、キスしたこの瞬間に燃え上がるような欲望を自覚していた。
 耳鳴りするぐらいに大きな心臓の動きとともに感じる目眩。キスした事によってアキラは自分の行動が正しかったのだと確信した。
 秘密を共有してこれで二人はずっと一緒にいられるだろうと。
 足元に落とした視線を次にどこに持っていこうかとヒカルは決断出来ないでいた。思考が止まったようだったが、アキラの行動の突飛さが腹立たしく、殴ってでも目を覚まさせてやりたくなる。
 恋などというそんな馬鹿な事があるはずがないのだ。おそらくアキラは佐為に固執するあまり恋だと勘違いしたのだろう。
 しかし裏を返せばアキラは佐為しか見ていないという事なのだ。ネットで打っただけの佐為を追い掛けるアキラが苛立たしい。
 恋をしているのだと思ってしまうぐらい佐為に溺れているアキラ。目の前にいてキスまでしたのはヒカルなのに。
 見つめるアキラの瞳の中にヒカルはいない。ヒカルの姿をした佐為がいるだけ。
 この時、ヒカルの中に仄暗い感情が確かに生まれていた。人はそれを嫉妬というのだろう。
 佐為を追い掛けるアキラは、いつまでたっても佐為のものであってヒカルのものにはならない。
 初めてアキラを知った時からアキラに憧れ、アキラを追い掛けてこの世界に飛び込んだ自分が無視され、佐為だけがアキラの内に根付いただなんて……。







 アキラの特別になりたい。






 アキラの特別になりたい。






 アキラの特別になりたい。












「いいよ、塔矢。お前がそこまで言うなら信じてやる」
 ヒカルはわざと笑顔を作っていた。
 他人から見れば嫉妬で歪んだ笑顔はきっと醜いはずに違いないと自覚しながらもヒカルは決心していた。
 アキラが望むように全てを差し出して、その代わりにヒカルはアキラとアキラの碁を手に入れる。
 アキラはいつまでも佐為という幻を追ってくれば良いのだ。
 ヒカルがsaiでないと解っているだろうに、アキラの曇った眼はアキラを狂わせている。恋などと思い込んでしまっている。
 そんな状況を知っていて、誰が好きだなどと信じるものか。消えてしまった佐為に惑わされているなんて馬鹿馬鹿しすぎる。
 佐為はその実力によってアキラの特別になったけれど、自分はアキラを騙す事で特別となる。
 騙したことで罪悪感を覚えるつもりはなかった。すべては誤解して惑わされたアキラが悪いのだから……。




 もしこの時ヒカルがアキラの心を読む事が出来れば、もっと早く心の平穏を得る事が出来ただろう。
 しかしヒカルはアキラの心を読む術もなく、またアキラもヒカルの心を読む術などなかったのだ。
 アキラはヒカルの微笑みを目の前にしながらこれ以上なく幸せだった。
 これからは望む時にヒカルと打つ事が出来るのだ。
 好きだと言った気持ちに偽りはない。
 碁を通じての精神的な想いが肉体にまで及んでも些細な事のように思えたのだ。
 身も心も一つになる事で、さらなる棋力の躍進を約束されたように思えたのだ。
 ぎこちないキスを何度も繰り返し本来ならありえない行為に及んでいく。それが碁を通ーじて心を通わせた自分達に相応しい行為に思えたのだ。




 悟りを得たように思えても、アキラもまだ若かったという事だろう……。






NEXT