君の声が聞こえる場所10




 アキラの心はこれ以上なく浮き足立っていた。自分の家で合宿が出来れば一番良かったのだがこの際贅沢は言えないだろう。
 これで漸くヒカルと個人的に打つ事が出来るのだ。何度も打てばヒカルの中に見たsaiの秘密が解るかもしれない。
 だが、例え判らなくともアキラにとってヒカルと打つという事が大事だった。 
 アキラが浮き足立っていた証拠に、ヒカルの家へと辿り着くのに一つ角を曲がり間違えた事でも窺い知れるたが、その外壁で囲まれた敷地の広さに圧倒された社は気が付かなかったらしい。
 家の中に招き入れられ、まず社が称賛混じりのため息をつく。
「進藤っておぼっちゃんやってんなぁ」
 イメージとしてはアキラの方がよりそれに近いだろう。ヒカルの姿だけ見ていれば、複合大企業で政界とも繋がりがある進藤家の跡取りとは思えない。
 アキラですら後援会を無碍にすることなく一目置くようにしているのだから、ヒカルにも『進藤家』に深い繋がりのある後援会があっても不思議ではなく、なんらかの柵があってもよさそうなものだが、ヒカルにはそんな素振りは皆目見受けられない。だからヒカルから由緒正しい『進藤家』との連想が出来なかったのだ。
「そうでもないよ」
 ヒカル自身も否定しながら、『おぼっちゃん』な扱いというより今は腫物を触るような扱いだと感じていた。
 碁打ちとしてプロになり、高校に行かないと決めた時からヒカルの存在は無くなってしまったかのようだった。
 いや、それよりもずっと昔から両親達は仕事や付き合いなどが忙しく、ヒカルという個人を尊重してもらった記憶はない。
 ヒカルはあくまでも『進藤家』の後継者としての資格を持っているだけなのだ。
 そんなヒカルの苦悩を社は知る由もなく……。
「確かに見た目では塔矢の方がおぼっちゃんやけど。高校行かんでもええなんてなぁ。どうやら一般家庭に育ったんは俺だけみたいやわ」
 世間体というものを大切にし、平凡である事を尊ぶような普通の家庭を嘆きつつ、部屋へと通された社が荷物を置く。
 今回のことで学校を休む事になり、親がかなり反対をしたのだと愚痴を言う姿を見ながらヒカルは明るく笑ってみせた。
「俺は社の方が羨ましいけど」
 ヒカルの笑みを作ったような笑みだと感じつつも、アキラはこれからヒカルと打てるという目の前の餌にその事をすぐに忘れてしまう。
「慰めはエエよ。折角やし、はよ打とか」
 社の言葉を合図にするかのように碁盤を囲み、アキラが提案した早碁で勝ち抜き戦をしているうちに、時間は夢のように過ぎていく。
 気が付けば時計の短針は天を指し、落ちていくばかりとなっていた。
 アキラは純粋にヒカルと打てるのが嬉しかったので、ヒカルが暗い表情をしている事に気が付いたのは集中力も切れかけた深夜すぎで、アキラが社と打っているときだった。
 盤面を見ているようでいてヒカルの表情は暗い。
 単純に思ったのはヒカルが疲れているのだろうという事で、当初予定だった徹夜で打つ事を考えなおす。
 少しでも休もうかと口を開きかけた時に廊下の障子が開き声がかかる。
「ヒカル、夜食持ってきたよ」
 見覚えがある長い髪の少女が現われた事でヒカルの表情は明るくなる。
「わりぃ、あかり」
「お茶とか、いつでも言ってね」
 まるでそれが当たり前かのような態度はアキラの母を彷彿とさせた。理解ある碁打ちの妻のような態度。
 彼女はヒカルの特別なのだろうかとアキラの内に焦りが生まれる。
 そう考える事自体おかしな事なのかもしれないがアキラの内にあったのは独占欲にも似た感情だった。
 ヒカルを今捕まえておかなければ次はない。次の機会など想像も出来ない。そして何よりもヒカルがsaiとだぶって見えるその真相を知りたかった。
 単にsaiの棋譜を研究し収集しているというのなら、それがどんな棋譜なのか心底から興味が湧いてくる。
 アキラ自身はこの時、行動に出る事に躊躇いなどは一切なかった。
「……進藤も疲れているようだし、社も学校を終えてだろうから疲れているだろう。少し仮眠を取ったほうが良いと思うんだが」
 一旦休憩を提案したアキラに社も同意する。
「そんなやわちゃうけど、確かに進藤は具合が悪そうやな」
 どうやら社もヒカルの暗く沈んだ表情に気が付いていたらしい。
「ちょっと風邪気味みたいかな」
 ここで無理をして北斗杯当日に支障が出てはまずいだろうという事で睡眠を取る事にした三人は部屋を後にする。
 寝室として用意されていたのは客間だったが、そこは見事に洋室に作り替えられており居心地の良さそうな調度類とともに片方の壁側にはベッドが置かれてあった。
「同じ客間もあるし、和室の方が良ければ俺の部屋の隣に用意してあるんだけど」
 一人一部屋用意してあるとのヒカルの言葉はごく当たり前の事のように紡がれる。
 洋室の客間以外にも余っている和室があり、そこを使う事も出来るのだというヒカルの言葉にアキラはすかさず反応した。
「進藤、申し訳ないけれど僕は和室の方が良いんだが」
「社はベッド派? そう、じゃあ塔矢はこっち。おやすみ社」
 社が眠る客室を後にしてアキラは漸くヒカルと二人っきりになれたと胸を踊らせる。そしてチャンスをむざむざ見過ごすような真似はしないとアキラは誓うのだった。



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