誰かに負けるのは嫌だった。囲碁も塔矢を見返したくて努力したようなもので……。 そして追いかけていたはずの塔矢に捕まって俺達は付き合いだした。付き合いだして二ヵ月。 たった二ヵ月。 それなのに……。 俺はもう誰かに負けたのかもしれない。 たった二ヵ月の蜜月。 俺、進藤ヒカルは恋人であるはずの塔矢アキラの浮気を、疑っている……。 「どうしたんだ進藤。浮かない顔しているけど?」 話聞いてる? と首を傾けて塔矢は俺の顔を覗き込んだ。「えっと、美味しいお店の話だったよな?」 無理に意識を戻す努力をして、俺は塔矢の顔を見た。相変わらずキレイな顔をしている。 自分が知る限り、佐為の次ぐらいにはキレイな顔だ。 反対に今の俺はとても醜い顔をしているはずだ……。 嫉妬。 胸の奥が焼け付くように痛い。 「市河さんに教えてもらったお店がとても良かったんだ。窓から見下ろす夜景も綺麗だったし、何よりも料理が美味しいんだ」 楽しそうに話す塔矢。 それってデートじゃないの? って叫びそうだった。 人に教えてもらった所なんかじゃなくって塔矢自身が探してくれた方が良かった。例えデートコースマニュアルどおりでも。 「今度一緒に行こう、進藤」 曖昧な返事をしてたから? だから浮気するのか? 俺の事嫌いになったのか? そして俺から離れていくつもりなのか……? 決定打は塔矢が女流棋士と会話をしている所を見てしまった事。 とても可愛い子だった。 俺達より三つ年上だったけれど、童顔なのとおっとりした口調からは全然年上らしく感じない。 背だって低いのに、それでいて女らしい身体だった。 胸も大きくて、細いウエストも病的ではなく健康的に締まっていて、ミニスカートから覗く足はカモシカのよう。 もしかして、塔矢……。 女の人の方が良くなったっていうのか? 男の俺の事はやっぱり気の迷いだったってこと? 『いきなり好きだと言われても気持ち悪いだろうね。でもこれが僕の偽らざる気持ちなんだ』 たった二ヵ月前。 元名人とおばさんが中国へ行って居ないからといって遊びに行って。囲碁を打つのが楽しくて。 塔矢と打つとマジで楽しいから、今夜は徹夜で打とうとお泊り宣言した俺に。 まるでごく当たり前のことのように告白した塔矢。 『ずっと言うつもりは無かったんだが、僕は君が好きだ』 絶句する俺に塔矢は悲しそうな表情を押し隠して微笑んで。 『いきなり好きだと言われても気持ち悪いだろうね。でもこれが僕の偽らざる気持ちなんだ。返事は要らない』 けれど、君を泊めたくないのは解ってくれるね? そう言った塔矢の表情は大人の男のものだった。 全身が震えた。 返事は要らないと言う塔矢は既に諦めていて、俺を遠ざけようとしている事が解ってしまった。 俺をそんな風に思っていたんだという嫌悪感は無く、それよりも胸にあたたかいものが降り積もる。 その夜、俺は塔矢の家に泊まって……。 幸せな二ヵ月だった。 暇があれば塔矢の家に行くようになって、まるで同棲しているみたいだったのに。 いつから俺は塔矢を疑うようになったのだろう? いつから塔矢を信じられなくなったのだろう? 近くまで行くと、塔矢とその女流棋士の話が耳に入ってくる。 「……、今度そのお店紹介してくれないか?」 「良いわよ。行く日教えてくれたらマスターに電話してあげる。それとも一度一緒に行く?」 甘えたような可愛い声。 上目遣いで塔矢を見てもそれが自然で。 なんて自分と違う事だろうか。 塔矢だってやっぱり可愛い女の人の方が良いに決まってるんだ……。 けれど彼女がどんなに塔矢とお似合いでも、俺は誰にも負けたくなくて。 「塔矢っ」 引き際が悪いと思ったけれど。 醜い自分を自覚していたけれど。 俺は邪魔をしてしまっていた。 「遅いぞっ塔矢! いつまで待たせるんだよ」 そう言って間に割り込むように塔矢の横に立つ。 塔矢と待ち合わせしてたわけではない。 ほんの偶然。 もしかして俺が来て残念だった? 塔矢の複雑な表情を俺は審判を受けるような気分で見つめ返した。 「それじゃあ、また今度」 「うん、またね」 俺から目を離した塔矢が女流棋士に微笑み、二人だけの会話がなされる。 軽やかな後ろ姿を見送りながら、塔矢はゆっくりと俺に向き直った。 真剣な表情に一瞬たじろいだけれど。 俺は顎を上げて塔矢を睨み返した。 「あのね進藤。僕が他の人と話す事がそんなに悪い事なのかい?」 自分自身の行動については悪怯れもせず、俺の非を咎める塔矢。 なんの弁解も無いのか? すでに白を切る気もないぐらい彼女に本気なのか? 浮気は白を切れるかどうかがポイントなのに。 やっぱり、俺なんかより女の子が良かったんだ。 それならあんな事言わなきゃ良かったのに。 好きだなんて、ずっと黙っていてくれれば、こんな想いしなくてすんだのに……。 「デートの約束してたんじゃないの? 別に良いけどさ。もしかして邪魔したの怒ってるのか?」 八つ当りだって、解っている。 塔矢が女の子と一緒になるのって普通なのに。 本当なら……。 もし、俺が人格者なら。 塔矢がしている事を見守ってやって、そして気付かない振りして。 フェイドアウトしていくのを受け入れれば良いのに。 ……それが出来ないのは。 負けるのが嫌だからじゃない。 塔矢が好きなんだ……。 塔矢が呆れたようにため息をつく。 「進藤……。当分逢うの控えようか」 それは、疑問形じゃなかった。 その事は塔矢の中で決定していたんだ。 俺はもう何も言えなかった。 心は嫌だと叫んでいたけれど、これ以上塔矢に嫌われたくなくて俺は頷いた。 頷くしかなかったんだ。 |