わかれび




 新築ならではの真新しい木の匂い。音も立てずそっと降り立った縁側。開放的な造りは昔ならではの建築様式だからだ。

 夜中に目が醒めたリクオは己の姿がひ弱な人間ではない事に満足げに笑むと足として働ける下僕を呼ぶ。
 基本的に妖怪は夜の存在であるので、人間のリクオの生活を乱さぬようにはしているが昼間よりもその姿は多い。
 行き先を告げれば「あいよっ」と気っ風の良い返事が返っきて、たどり着いたここは薬鴆堂。
 驚かせてやれと常よりも足音を忍ばせば鴆の作業部屋から声が聞こえてくるではないか。
 鴆の男らしい艶のある声をリクオは好ましく思っているが、いつもより機嫌の良い声音には自分以外の誰がとほんの少し眉を寄せる。一方的な話し声からして電話だろうが、古風な鴆がどうしてとリクオはいぶかしむ。
 最近薬師一派も携帯電話を持つようになったらしいが、頭領の鴆は頑なに持とうとしなかった。それがどういう風のふきまわしか。
「次は生で頼むぜ。あぁ? バカを言うな、とんとご無沙汰してらぁ」
 何を生で頼んだのか。ご無沙汰しているらしいが。生と言えば魚か? 生麦、生米、生卵、リクオがいくつか『生』を想像するが、鴆のいうものとは少し違う気がする。
「いやいや、楽しむって言ってもよ、若頭には生はキツイようなんでね」
 自分を指す言葉にリクオはさらに首を傾げる。
 自分がキツい『生』? 楽しめない? 残念ながら生魚は好きだ。
 苦手な生など鴆との会話を思い出してもそんな話をした事はない。
 ……。
 いや、一つだけ心当たりがある。
 唯一、閨での事なら話題にしたことがあったが、まさかそんな事を電話で話すだろうか。
「あぁ。この鴆が金に糸目をつけるかよ。勿論、袋搾りだろうな?」
 袋を搾る…だって? ここに至って何か卑猥な話をしているのではないかと漸くリクオも悟っていた。
 やはり先程からの会話は閨での事なのだ。
 袋絞りとはどんなプレイかと、まだまだ初なリクオの想像の範疇を越えるが、こんな内容の電話をするとはきっと電話の相手は浮気相手に違いない。
 鴆の性格から考えて浮気等はないと思いたいが、一度思い付けば中々脳裏から離れなかった。
 鴆以外知らない身としては、鴆が自分以外にも甘い睦言を囁いているのかと思うだけで腸が煮えくり返りそうである。
「今夜? そりゃ無理だ。その若頭が来るんだよ。明日にしてくれねぇかい」
 つまり…。その浮気相手とは明日会うのだろう。
 逢い引きの約束をするなど、どう考えても浮気現場に違いないだ。
 生でして中で出すと腹を壊すとか言って外出ししかしなかったのは鴆の方だ。
 確かに一度大変な目にあったからリクオも中で出されるのは嫌であった。
 ゴムをするという文化も妖怪にはないから仕方ないとはいえ、最後は身体中を汚される。
 腹にかけられるぐらいならまだ良い。
 顔にかけられたりもするし、そういうのが好きなのかと思いきやどうやら違ったらしい。
 他のやつには、苦手な電話を使ってまでも『生』を要求しているではないか。
 ここまで虚仮にされたのは初めてだった。
 仮にも情人として身も心も許したというのに、他の者に興味を移すなど、なんという侮辱だろう。
 鴆にすべてを許し、閨では従順でさえあったのは、少なくともリクオ自身が鴆に想いを寄せていたからだ。第一、男が男に抱かれるのだから相当の覚悟もしたし、鴆もまた同じであると考えていた。
 なのにこの仕打ちはどういう事だろうか。
 リクオは怒りで手どころか身体中が震えるのを自覚する。


「鴆!覚悟しやがれ!」
 障子をスパーンッと開ければそこには驚く鴆の顔があった。
 それもそうだろう。眼前に白刃が突きつけられれば何事ぞと思うに違いない。
「いきなりなんだ! こらっ得物をしまいやがれっ」
「よくもよくも人を虚仮にしやがって」
「ちょっ、なんの話だっ」
 自分の心に聞きやがれっとリクオが上段に祢々切丸を構え……、

 ・・・・・・。


 ちなみに、日本酒であるが、火入れしていない酒を生酒と言う。通称『生』だ。生酒は温度変化に弱く常温保存ではすぐに酒の味が落ちてしまう。
 いつぞやにリクオが飲んだ酒が生酒で、保存が悪かったのかリクオが口に合わないと愚痴ったものだから鴆は同じ酒の火入れを取り寄せてやろうとしていたのだ。勿論、袋搾りも酒の濾し方の一つではあったが、リクオがそれを知る由も無く。





 白々と明けていく夜。消え行く闇とともに、幼さを残す愛らしい顔が心配そうに曇っている。
「鴆くん大丈夫?」
 申し訳なさそうなリクオの声音に鴆も躊躇いがちに笑みを浮かべる。
「手加減無しとは容赦のねぇこった」
 そんな言葉とは裏腹に鴆はこの状況を楽しむだけの余裕はあった。
 しかしリクオの仕打ちに溜め息をついて見せればリクオは心底困ったように小さくなる。
「ごめん、なさい」
 得物を突きつけられた時は命が縮まったが、結局リクオがとった行動は鴆に跨って一晩中離さなかったというぐらいで、確かに別の意味で命は縮まったかもしれないがうまく誤解も解けた。
 それよりも、リクオのとった行動があまりにも可愛いではないかと鴆の表情も弛む。
「リクオが嫉妬とは嬉しいじゃねぇか」
 特に夜の姿になったリクオが、である。多少は手荒であったが、愛しいお人の可愛らしい一面を見た気がして鴆は満更でも無さげに相好を崩す。


 今夜には件の酒も届く。今宵は月見酒と洒落こもうではないかと、鴆が頬を弛めればどうやらリクオの不興を買ったらしい。
 揶揄されて頬を染めるリクオが口を噤む様子すら可愛いものだと、鴆は弛みっぱなしの顔をさらに弛ませるのであった。






かなり前の拍手のログなんですが。多分←
ちなみにわかれびは別れ日でなくて別火です。

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