枝垂れ桜の高い木の枝の上。あの枝に夜の自分は難なく登る事が出来る。
それは、今の人間の血が勝っている自分には考えられない身軽さだ。
樹齢数百年の古木。太い幹に足場はない。いくら木登りが得意でもまず無理な高さだ。
下から見ても壮観であるのだから、古木の中腹で見る満開の桜はさぞや綺麗な事だろう。
きっと彼は、夜の自分はその景色を見たいに違いない。
勿論同じ人間なのだから自分が見たのに代わりはないが、妖怪の血に支配されている時はまるで違う人物のようだと思う。
考え方も行動も言葉もすべて今の自分では考えられない事ばかりで。
たとえそれが深層意識だとしても、夜の自分は衝動的であったし、昼の自分に戻った時に無駄に悩みたくないのか意図的に記憶を遮断しようとする。
脳裏にある記憶は自分が体験したというよりは、まるで仮想の世界の出来事のようで、同じ自分だというのに不思議な感覚ばかりが残る。
勿論、人と妖とはいえ一つの個体であるからして、最後に辿りつく答えは同じだ。
しかし同じ答えを導き出すにしても別の方程式を使って解くから、自分自身でさえ別人のように感じるのだとリクオは思う。
この感覚はずっと付きまとうものなのか、それとも妖怪の血と完全に解け合って一つになるのか浸食されていくのか。
不安はある。
夜の自分の方が若干優位なのは、妖怪年齢でいえば彼が成人間近であるからだろうか。
人間の自分はまだまだ子供の域を出なくて、闘いを一手に引き受ける彼の態度から、まるで彼に守ってもらっているかのようだ。
まだ早いと言いたいのか、もしくはこうして人間に戻った時の葛藤を避けたいのか、記憶を遮断しようとする彼のの思考を理解するのは難しい。
記憶を共有し同じ目標を目指す別人として位置づける方が気分的に楽だとリクオは溜息を落とす。
「同じなんだけどな…」
しかし別人だとするなら、夜の自分に大切にされているに違いない。
それに、血に支配によって考え方も行動も一致しなくなるが、こうして桜に惹かれる気持ちが同じならば、義兄弟の彼を想うのも同じだとリクオは再び溜息を吐く。
夜の自分は大胆で、鴆への気持ちを認識した瞬間には想いを遂げ、二人の関係は人間の自分には考えられないような間柄にまでなっていた。
その記憶を遮断され、夜の自分に大切にされているのだと思うが、結局は同じ個体なのだから完全に記憶を遮断するというのは不可能だったようで、今は殆どの記憶を共有している。
だから夜の自分が鴆と甘やかな関係であるのをリクオは知っていた。
「でも、鴆くんは夜のボクだけみたいだけど」
同じく義兄弟の彼を想っていても、人間の自分の想いは報われず、夜の自分だけが鴆の心を独占しているという事も理解している。
だからこそ、こうして溜息を吐くのだと見上げていた枝垂れ桜から視線を逸らせば、
「オレがどうしたよ?」
突然に声が掛かり、リクオが文字通り飛び上がる。
「ぜ、鴆くん!」
滅多に本家に顔を出さない鴆の訪問にリクオが驚くのももっともだろう。
「何か上にいるのか?」
この本家に何の用だと、不審者を糾弾しようとする鴆に、何も居はしないとリクオは慌てて否定する。
「ただ見上げてただけなんだ。ボクには樹の上に行くのは無理だなって」
鴆の望む三代目も夜の自分に対しての期待ならば、枝垂れ桜を独占するのもまた夜の自分。
人間には無理だということ。
「登りてぇのか?」
リクオの言葉を額面通りに受け取った鴆にリクオは遠慮がちに首を振る。
桜の木に登りたい訳じゃない。
ただ、その場所を易々と手に入れられる夜の自分を羨んでいただけなのだが、それを鴆に打ち明ける気にはなれなかった。
夜の自分を寵愛している鴆には何も言う事はない。むしろ夜の自分を羨ましいと一言でも漏らせば、この淡い気持ちすらも見破られそうで怖いとさえ思う。
ただ一言、リクオが零す。
「とても見晴らしが良いんだろうね」
桜の季節にはとても美しい光景だろう。
下から見るのとは違う景色。桜に包まれるような、世界を埋め尽くすような……。
「まぁ、今は大した事ねぇだろうが。しっかりつかまってな」
「えっ?」
リクオが一瞬だけ意識を鴆から逸らした瞬間だった。
突然、鴆に抱き寄せられたかと思うと、身体がふうわりと宙を舞う。
一瞬にして自分が木の枝のそれも頂点近くに連れられてリクオは無意識に鴆にすがりついていた。
流石、人外の力だ。
人間一人を抱いたまま身軽に飛んでみせた鳥の妖は、頂点に近い枝へとリクオを連れたまま舞い降りたのだ。
重力を感じさせないのか枝はしならない。
「どうだ、リクオ」
「う、うん」
景色どころではなかった。
鴆に腰を抱かえられた形で枝の上にいるなんて。
身長差があるため、リクオ自身の足は枝にはない。片腕だけで鴆に抱かれ不安定この上ないのに、不安はまったくなかった。
それよりも、鴆の温もりを感じる位置に鼓動が早さを増す。
開いた胸元。着物に焚きしめた香に目眩がした。
自分の手が自然と鴆の着物を掴んでいるという事実。まるで抱擁されているようでリクオの頬が染まる。
下半身までもが鴆の身体に密着していて、太腿には着物を介してでも温もりが伝わってくるではないか。
単に木の上に連れていってやりたいと思っただけであろう鴆には申し訳ないがリクオにしてみれば景色どころではない。
二人きりなのだ。
こんな近くに想う人がいて、見上げれば鴆の端正な顔がある。
引き締まった口元。端正だけれども男らしい目鼻立ちをしている彼。その腕は身体が弱いだなんて嘘のような力強さがある。
「どうしたリクオ?」
こんなに間近で鴆の顔を見るとは思わなくてリクオの心臓は限界までに打つ。
「力ぁ抜いて大人しくオレに身を任せな」
「っ!」
耳元で囁かれ、なんていやらしい台詞だろうと顔を上げれば、ゆっくりと鴆の顔が近づいてくる。
まさか、まさか……。
『キスされるの? 夜のボクにするみたいに?』
リクオは心臓が止まるのではないかと錯覚の中で鴆を待つ。
『二人とも知らないと思っているだろうけれど。ボク知っているんだから』
非難がましくリクオは二人の関係を思い出して、それが今まさに己の身にも訪れるのだと期待してリクオはゆっくりと目を瞑った。
しかし、リクオの期待を裏切り、前髪を上げられて額にこつんと鴆の額が当てられただけで終わる。
「熱。は、なさそうだな」
「……、うん」
余程赤い顔をしていたのだろう。
熱があると思われたらしく早とちりだったとリクオは誤魔化すように笑みを浮かべる。
「こんな高いとこなんで緊張かも」
「怖いか?」
「ううん、鴆くんと一緒だもん」
さらにぎゅっとしがみつけば
「嘘つけ」
と、さらに強く抱きしめられた。
鳥の妖である彼は少し体温が高いのかもしれない。口は悪いが案外と風流なのか趣味の良い香の匂いがする。
「リクオ、」
見つめられるだけでリクオはさらに鼓動が早くなるのが解る。
このまま二人きりであれば良いのに……。
「そんな顔すんじゃねぇよ」
どんな顔をしているのだろうと鴆の顔を見るが、珍しく柔らかい表情をしていて、それは反則だとリクオは目を瞑る。
木の上が怖くて震えているとでも思われたのか、鴆はリクオに優しく語りかける。
「……もう、降りるか」
「……うん」
本当はもう少し鴆の腕の中にいたいと思ったが、それは覚醒した夜の自分の特権だからとリクオは素直に頷く。
いつか人間の自分が鴆とどうにかなるなんて期待はしない。
夜の自分も言っていたではないか『妖怪はオレに任せな』と。それはつまり人間の時の自分は妖怪の彼にふさわしくないという事を意味するのだ。
だから片想いで良い。
人間としても生き、人間の立場を利用して妖怪を守りたいから。
そんな決意を妖怪の誰からも理解はしてもらえないだろう。
しかしそれで良いのだ。
それこそ妖怪の事は夜の自分が纏めていれば良いし、人間の自分は影の存在で十分なのだ。
大切な仲間達が人間の生活に固執する自分を歯痒く思う気持ちも解るから。
けれど。
「少しでもボクの事……」
リクオは言いかけた言葉を飲み込む。
女々しい言葉を吐けば夜の自分に笑われそうで・・・。それこそ自分だって男なのだ。弱音は心を弱くする。
理解されなくても受け入れてもらえなくてもたった一人でも。
奴良組の三代目を継ぐと決意したのだから、自分は立っていなければならないのだ。
そっと降ろされてリクオはにっこりと鴆に笑いかける。
「思った以上に高くてびっくりだったよ。やっぱりボクには似合わないね」
ボクには鴆くんの腕の中なんて似合わない、そんな言葉を押し殺してリクオは鴆を屋敷の中に引き入れる。
「夜風って身体に悪いらしいから。今、お茶でも持ってこさせるよ」
パタパタと雪女の名を呼びつつ去っていくリクオの背を見つめる鴆がたった一言呟く。
「失敗した……」
その意味するところを知るのは鴆ただ一人だった。
一応、鴆←リクオで。抱きしめられてドキドキしてる昼若が書きたかっただけです。一線を越えたとしても最後の最後までドキドキしているに違いない初々しい昼若が書きたいです。
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