ホワイトデー



 リビングのテーブルには、ヒカル好みの洋食が並ぶ。近くの某有名レストランからの取寄せであるため、いつもよりは豪華である。
 どちらかというとアキラ好みの和食ではない。
「あーあ、世の中の皆はホワイトデーだなんて浮かれてさ」
 ため息を付きつつも食事の手は休めない。けれど、ホワイトデーだとういうのに自宅で燻っていなければならない事が腹立たしいヒカルである。
 そもそもバレンタインデーも本因坊戦の予選で一緒に過ごせなかったのである。今日ぐらい恋人同士のデートでもしたかったのだ。
「何を言うんだ、進藤! 僕達だって立派なホワイトデーを過ごしているじゃないか」
 ヒカルのためを思い、無理矢理某有名レストランと掛合ったのは何を隠そう『恋人』の塔矢アキラその人である。
 散々我侭を言う恋人の願いを叶えてやろうと、忙しい日程を調整し、かつ大枚をはたいたのだ。
 それを知っているからこそ、そうそう不満も言えないヒカルなのだか、つい口が過ぎてしまうのだろう。
「でもさぁ、世の中のカップルはフランス料理食べながら、スイートルームで御一泊ってやつだろ。それに比べて俺達は自宅で侘しい食事だもんな」
 この目の前の食事が侘しいというのは少し語弊があったが、やっと両想いになった恋人同士としては、かなりの不満があったのだ。
 多少受け売りではあったが、バレンタインも棒に振ったヒカルとしては、これでも満足とは言い難い。
「進藤がしたければ、いくらでも設定したのに」
 アキラとしてみても、ヒカルが喜ぶならどんな事でもしてやりたかった。今日だってヒカルの希望通りのセッティングだったのだが……。
「バカ、いいよそんなの。この日に男同士だなんて世間に俺達はホモですって言って回るようなもんじゃん。そんなのいいよ、俺」
 本当は恋人同士のイベントというものを堪能したかったヒカルだったが、自分達の立場というものもある。
 この日に男同士というのは、やはり要らない誤解を招くものであろう。
 しかし、そう言って拗ねた様子のヒカルにアキラもついつい甘くなってしまう。
「じゃあ、日を変更すれば良いじゃないか。君、明日空いているだろう? 明日一日デートスポットを回って、最後にはスイートルームでモーニングコーヒーを飲むんだ」
 自分で提案してみてアキラも良い案だとばかりに頷く。そしてその申し出にヒカルの顔が輝いた。
 だがそれも一瞬で消え去ってしまう。
「明日はダメ、予定あるんだ」
 つまらなそうに呟くヒカルの様子から、明日の予定というのはあまり楽しい予定ではないと見て取れる。
「明日は手合いもないし、指導碁の日でもないはずだよ」
 アキラの卓越した記憶力は、自分のスケジュールだけでなくヒカルのそれも把握しているといっても過言ではない。
 その記憶ではヒカルは明日一日はフリーのはずだった。
 アキラの当惑を余所にヒカルは恥ずかしそうに話し始めた。
「実はさぁ。俺一人暮らし始めるのに、母親に『もう一人前だ』なんて宣言しちゃったもんだから、今年の確定申告自分でしないとダメなんだよ。だから明日はちょっと確定申告に行くんだ」
 と、言うことは今まではすべて母親にまかせっきりだったという事だろう。 だが自分の確定申告なのだから自分でするのが当たり前だ。テレビのコマーシャルでもそう謳っている。
 そこまでは良いが、今日がホワイトデーだとすると明日は三月十五日だ。そこまで考えが及びアキラの口調がにわかに厳しいものとなる。
「明日は確か最終日だろう?」
 確定申告期間が一ヵ月もあるというのに、明日の、それも最終日まで後回しにしている事がアキラには信じられなかった。
「ふーん。で、塔矢はもうやったの?」
 だが、ヒカルはそんなアキラの考えなど微塵にも感じていないらしく、気の抜けたような返答をして益々アキラの機嫌を逆撫でした。
「ふーんじゃないだろう! 最終日といえば、君みたいなのんびり屋が慌ててやってくるから込みあってる日じゃないか! 僕は専門家に任せてるから良いけど、君は自分で申告書作成出来るんだろうなっ」
 そんなアキラの激昂にも、ヒカルは『何をそんなに怒ってんの?』と言いたげな表情を作るだけである。
「出来るわけ無いじゃん、だから税務署に行くんだろ。相談コーナーがあるって話だし、指導碁みたいなやつかな?」
 ヒカルの様子から、実は楽しんでいるんじゃないかと思えてきてしまう。
 まぁ本人が行くというのだからそれも仕方がないとアキラも諦めるしかない。
「で、もう資料は揃って計算もすんでいるんだろうな?」
 恋人とはいえども、お互いの懐具合など追及した事無いしする気もない。だが、年令の割には高収入の部類には入ろう。
 アキラは手合い料や謝礼など、すべて表計算で計算できるようなシステムを芦原からもらっていたので、いざ一年分と言ってもほんの僅かな手間で終わってしまう。
 しかし、ヒカルはどうだろうかと考えて、彼がそんな性格であるとはとても思えなかった。ましてや今まで母親任せだというのだから……。
「何それ?」
 アキラの質問にヒカルは反対に聞き返す。
「……経費とかは帳簿をつけなければならないだろう? それだよ」
 呆れたかのようにアキラは一瞬の間を置いて丁寧に答える。もちろんその表情は固い。
「帳簿なんて知らない。領収書類は箱の中に入れてるだけだけど?」
 おそらくそうであろうという最悪の答えにアキラは怒る気力すら無かった。
「……君の母君が一人暮らしを反対したのが解るよ。自分の事も満足に出来ないって知ってらしたという訳だ」
 プロになって何年も経ったというのに、その辺の自覚が足らなさすぎる。ヒカルの母親が、独立するのに強固に反対したのもアキラは解るような気がした。

「なんだよ、そんな事塔矢に関係ないじゃん。それよりさ、二週間ぶりなんだから、良い事しようぜ。ずっと我慢してたんだからさ」
 アキラの思惑を余所に恋人同士の夜を示唆するヒカル。
 折角のホワイトデーだったし、それまでもスケジュールが噛み合わず、お互いの若い性は今夜を期待していたと言っても良い。
 だが。アキラの性格からはそれを許せるはずも無く……。
「ものすごく魅力的なお誘いだけど、その前に電卓持っておいでよ」
「電卓? 何に使うんだよ。俺変態プレイって好きじゃないって言ってるだろ?」
 ……電卓を計算する以外に使える方法があるなら教えてほしい。
 アキラは何事も後回しにするという事自体許せない性格をしているのだ。何を言い出すかヒカルには見当が付いてもおかしくないというのに、今夜は違ったらしい。的外れなヒカルの言葉にアキラは我慢の限界を越えた。
「君、去年一年間の領収書を種類別に分けて、それを正確に合計するという作業を一瞬で出来るとでも思ってるんじゃないか? はっきり言って徹夜覚悟の代物なんだぞ」
 語調の荒くなったアキラに、ヒカルもただならぬ事だと初めて気が付いたようだった。
「でも電卓なんて無いしさぁ、それに領収書も全部有るわけじゃないし」
 そのセリフがまさに決め手となった。
「領収書が無くてどうやって申告するつもりだっていうんだ君は! それに君は暗算で合計するつもりかっ?」
 座っていた椅子から立ち上がってテーブルに拳を打ち付ける。そんなアキラの迫力に負けるヒカルではない。強く出られれば出られるほど反発してしまう。
「あぁもう! 自分の事は自分でするから放っておいてくれよ!」
 どうしてアキラにここまで言われなければならないのだろうか? そんな事まで干渉してほしいとは言ってないのに。
 口に出せない思いにヒカルの語調は荒かったが、アキラも負けていない。
「後で泣き付いてきても知らないからなっ」
「誰が泣き言なんか言うかよっ」
 売り言葉に買い言葉。今夜は甘い夜になるはずだったというのに。久しぶりに逢ったのだから恋人気分を満喫して、さらに身体が溶けてしまうほど交わりたかった。
 だから、ヒカルは自宅でも我慢しようと思っていたのだ。
 そんな思いをアキラは台無しにした。
 たかだか確定申告の事で、ここまで怒る必要があるのか? とヒカルは言いたくなる。
 きっとそんな理由は無いはずだ。確かに自分のいい加減さもあるが、アキラも真剣にとらえすぎなのだ。
 ヒカルは瞳に涙を浮かべながら隣の自室へと駆け込む。
 部屋に入って、母親から手渡された例の箱の中身を床にばらまいて、怒りを発散させようとするが余計に惨めになってしまう。
 それを一枚一枚拾い集めながら、ヒカルの頬は涙にぬれた。
『喧嘩なんかしたくなかったのに』
 恋人同士になって初めてのホワイトデー。
 そんなイベントを満喫したかったというのに、結局喧嘩で終わってしまうなんて。
 しかし今夜は仲直りする気になれなかった。

* * * *
 結局。
 部屋の中でバタンバタンと暴れているヒカルの様子を見兼ねたアキラが、コンビニで電卓を購入してヒカルを手伝う事になる。
 もちろん、早々に仕上げて恋人同士の夜を楽しんだのは言うまでもなく……。


 翌日の朝九時。
 解りにくい場所にあった税務署に行き、確定申告を早々に済ませたヒカルである。 そしてアキラの言ったとおり自分のような後回し組が大勢いて、階段にまで人が溢れていたことに少なからず驚いた。
 昨晩、かなり激しくしたためにヒカルの身体を心配して一緒に付いてきたアキラがしたり顔で、『今年はきちんと管理するんだよ』と口にする。
 機嫌が良くなったアキラにヒカルも嬉しくて素直に頷いた。
「ところでさぁ、塔矢が前に緒方さんから車を貰ったって言ってただろ、あのアルファロメオ。あれって申告要るんだってなぁ。人から貰ったりしたら贈与税払うんだって? なんか緒方さんも有り難迷惑ってヤツ? 塔矢?」
 一緒に歩いていたはずなのに、急に立ち止まって青い顔をしているアキラをヒカルは訝しげに振り返った。
「どうしたんだよ塔矢?」
 もちろん車の件を、申告が必要などとは思わなかったアキラの心境を、ヒカルは知る由も無かった……。



 ホワイトデーで人と違ったネタを書いてみたかったっていうのと、オチはギャグっぽくしたかったお話。同人系小説書きで確定申告を絡めたホワイトデーネタを書くチャレンジャーは私だけかも?
 原作読んで、ヒカルのお母さんが座り込むところからなんとなく。一応シリーーズの延長な二人。
 オチ的には本編で車のくだりを書いていて思いついたもの。アルファロメオのスパイダーっていう車を会社の後輩君が乗ってて、若いうちはあぁいう車も良いなぁなんて思ってアキラさんに乗って頂いた。もちろん似合うかどうかは別問題。
 ちなみに500万前後の車なんで、たぶん貰ったりしたら贈与税の申告が必要と思われるけど、詳しくないのでよく解らない。車が何年落ちかにもよるし、簿価ならともなく時価だ??? 調べてみるのも(自分の好奇心的に)面白いかなぁなんて思ったけれど、そんな時間があるなら原稿しようと断念したので、詳しい人がいたら教えてほしい気分。
 ついでに本編でえっちを書きたかったので今回はこれも断念。別ジャンルの息抜きで書いてるうちに短篇なりにオチたのでupします。すみません本当に面白く無いネタで。人と違う、かぶらないネタが書きたかっただけなんです。
 本編を待ってくれている皆様には陳謝です。



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