いろは
この時期の温泉というのは本当に気持ち良い。 東京からも近い有名な温泉地での対局、それもタイトルをかけた対局なんて最高だといえよう。 これで雪がちらつく中、露天の温泉につかりつつ雪見酒というのも粋なような気がしつつヒカルは前夜祭の会場へと向かった。 明日は緒方十段と塔矢アキラの『十段』のタイトルをかけた一戦がある。それを間近で見れる機会にヒカルの胸は踊った。 流石にアキラも緊張しているのか、ろくに会話を交わしてはいない。ヒカルもそのテンションを崩したくなくて話し掛ける事はしない。 インタビュー等もあり前夜祭はいつものように進行していく。 ヒカルは終盤になり退屈を紛らわせるように会場を出た。 相変わらずアキラは誰もが見惚れる程美しかったが、彼が自分のものだと思うとヒカルは自然と顔が綻んだ。 一足早いが温泉に入りに行くのも妙案だと思ったが、ヒカルはとある理由でそれを思い止まった。 ついでにいうなら、その軽快な足取りも止まる。 というのは目の前の喫煙所で白いスーツ姿の緒方が煙草を手にしている所を見てしまったからだ。 回れ右をしようとしたのだが、どうやら緒方の方が先にヒカルに気が付いていたらしい。 「進藤、この頃アキラくんのマンションに足を運んでいるそうじゃないか」 その眼鏡の奥の瞳から、緒方が自分とアキラの関係を知っているのだという事をヒカルは悟った。 「なんだ、知ってたの?」 隠すつもりは無かった。 あのアキラを手に入れたのは自分なのだ。望んだ関係にやっと落ち着いて、これからは波瀾万丈とは無縁に生きていくのだ。 邪魔されてなるものかと、ヒカルは緒方を睨む。 「伊達に君たち二人に注目している訳じゃない」 非難するような口調では無いが、実際に非難されたような気分をヒカルは味わう。「緒方先生。俺に心理戦仕掛けてどうすんの? 俺ただの記録係だよ。先生の十段のタイトルに挑戦してるのは塔矢だろ」 例え、誰に何と言われようと塔矢を諦める事なんて出来ないとヒカルは思う。 そのためには、どんな悪意ある言葉だって跳ね返すだけの精神力を持たなくちゃならないのだと……。 しかし、そんな意気込みで返答したヒカルに緒方は含んだ笑いを見せた。 「俺が気になるのはその記録係なんだがね」 ずっと昔、病院の廊下で緒方に壁に押さえ付けられた事をヒカルは思い出した。実際には行動に移さないが、ヒカルを怯えさせるだけの迫力が今の緒方にはあった。 沈黙の中、遠くから緒方を呼ぶ声が聞こえる。 助け船とヒカルが安堵する一方、名残惜しそうに緒方は煙草をもみ消すと、呼ばれた方へと歩きだしたのだった。 やっと逃げ出せたとヒカルは胸を撫で下ろす。どちらかというと、災難の方が遠ざかったのだが……。 ヒカルは今度こそ軽快な足取りで部屋へと向かう。 今回は対局者の塔矢や緒方は各自一部屋を割り当てられているが、ヒカルはその他大勢ということで大部屋である。 解説者とか聞き手とかその他大勢は二手に別れて部屋割りがなされていた。 時計を見るとかなり良い時間である。ヒカルは浴衣と丹前に着替えると、もうすぐ閉まってしまう売店へと向かう。 というのは、今のうちに家の土産を買っておけば、急な予定変更でも慌てなくても良いからだ。 会場を出てからほんの十五分も経過していない。 なのに……。 どうしてまた煙草を吸う緒方に会ってしまうのか。 「進藤、一緒に風呂へ行くか? ここの温泉は肩凝りに効くらしい」 よく見れば先程までのトレードマークというより制服と化している白スーツじゃなくて浴衣姿である……。 待ち伏せされていたのか? そんな疑問はヒカルの浴衣の合わせ目から見える肌に視線が固定されている事ではっきりとした。 ちらりとショーケースに映った自分の姿を見て、緒方が何を見ていたか解ってしまった。 アキラとの情愛の証。 これのせいで温泉に入れないと判断したのだが、まさか浴衣で見える位置にまであるとは気が付かなかった。 「遠慮しとく。これじゃ入れねーし」 紅の鬱血を隠すようにして、ヒカルは身を翻す。 「見せ付けるじゃないか」 全てを知っているのだと言いたげな緒方の口調。 ヒカルは楽しみにしていた温泉には入れないし、緒方に弱みを握られたようで、これを付けた塔矢が憎くなった。 「あいつ、眠れないっていうから付き合ってたらこれだもん。無理言って記録係引き受けて、温泉楽しみにしてきたのに」 昨夜。 眠れないという塔矢に提案したのは自分だった。 出せば睡魔に襲われるだろうから、自分で処理すれば? なんて言ったら、そんな味気ないのはゴメンだね。とかなんとか理由を付けられて、結局いたしてしまったのだ。 「別に入っても良いだろう?」 俺なんか背中に爪痕だってあるぞ。などと緒方は問題発言をかましている。 そりゃあ囲碁界のスキャンダラス男にどんな跡があろうと誰も気には止めないだろうし、緒方も指摘されたところで痛くも痒くもないだろう。 しかし自分は違うのだとヒカルは拳を握りつつ抗議する。 「緒方さんは人事だと思って」 塔矢と自分の事を知っているなら、そっとしておいてほしい。もちろん別れさせるのが目的だというなら断固立ち向かうつもりだが……。 しかし、緒方からはそんな様子は伺えなかった。 それよりも楽しそうに笑みまでみせる。 「アキラくんの気持ちもよく解るよ。牽制ってやつだ。やれやれ。せめてタイトルぐらい俺のものであって欲しいね」 緒方は煙草を吸いおわったのか、吸い殻を捨てるとヒカルの方へと近付いた。 「しかし浴衣姿もそそるな。こうすれば、すぐに触れる事が出来る」 ニヒルな笑みとともに緒方の手がすっと伸びて、ヒカルの着る浴衣の合わせ目の奥を探ろうとするではないか。 まさかという驚きで一瞬ヒカルの動きが止まる。 「緒方さんっ」 そして咎めるようなアキラの声にヒカルはさらに驚く。 ヒカルは自分の死角になっていたので驚いたのだが、緒方はそうでもなかったらしい。 「おっと、これはこれは。言い訳できないところを見つかったな進藤? 大人のいろはというやつを教えてやろうと思ったのに」 推測でしかないが、緒方はアキラの反応を見たかったのではないかとヒカルは思った。 その証拠にアキラの声音が刺々しい反面、緒方の表情は明るい。 「緒方さん、進藤にそれを教えるのは僕です」 有無を言わさず、アキラはヒカルと緒方の間に入り込んだ。そして緒方を咎めたのとは違う声音でヒカルに微笑みかけた。 「進藤、ちょっと狭いんだけど露天風呂付きの貸切風呂があるらしいよ」 貸切? 露天? アキラの言葉にヒカルの目が輝く。 「えっ本当? 仕方ない、この際大浴場は諦めるか」 元より、こんな身体で大浴場に入るつもりはないのだが、アキラが原因であるからして恩を売るようにヒカルはアキラの提案を飲んだ。 「僕も一緒で良い?」 魅力たっぷりに優雅に微笑んでアキラがヒカルを見つめる。 この笑みにオチない奴が居たらお目にかかりたいとヒカルは思うのだが、その笑みがヒカル専用だという事には気が付いていない。 「当たり前じゃん、背中流させてやるよ」 軽口を装ったヒカルの言葉にアキラは苦笑する。 「それをいうなら背中流してやるよ、だろう?」 すかさずアキラがヒカルの腰に手を回す。これからその貸切露天風呂に向かうのだろう。 「俺も一緒に良いか?」 緒方が眼鏡の奥を光らせる。 「……なんて言おうものなら、アキラくんの視線に射殺されるな。予約の必要な貸切風呂とは……。計算ずくとはなかなかアキラくんも独占欲が強いようだな」 ヒカルの話から推測すると、『温泉に入りたいがために、記録係を引き受けた恋人の入浴姿を、誰にも見せたくないからと、入れなくなるような理由を作り、代わりに二人っきりで温泉に入るように仕向ける』というような図式が浮かび上がる。 遠ざかるアキラとヒカルの二人の背中を見ながら緒方は『面白いものを見た』というように笑みを浮かべたのだった |