「ありません」
ヒカルが頭を下げるのと同時に塔矢も
「ありがとうございました」
と、頭を下げる。そして、碁盤を指差す。
「あの黒のノビは中々良い手だったよ」
「結局白の方が良かったけど」
いつものように検討が始まる。あの黒石はハネた方が良かったとか、色々と検討する事によって勉強になる。
試したかった手を誉められると嬉しくなるし、次へと繋がる碁を打てる事によって自分が高処へと導かれているような気がした。
一通り検討を終え、時間を確認する。そしてその時間の経過の早さにいつも驚かされた。
「そういえば進藤、今度棋院の仕事で泊りの予定入ってるんじゃないか?」
唐突な塔矢の言葉に、ヒカルは一呼吸置いて記憶を手繰る。
「うん、有名な温泉地だったはずだけど。どうして?」
解説を頼まれているのと、指導碁が少し入っていた。老舗の旅館だったはずだが。
ヒカルの言葉に塔矢が微笑む。
「僕も行くんだ。……それで良かったら一緒に行かないかと思って。あの車でだけど」
少し戸惑ったように塔矢が言葉を紡ぐ。
「あっ、和谷と約束してるんだ」
塔矢も呼ばれているとは知らなかった。たしか塔矢門下の誰かだったとは思っていたのだけれど。
ヒカルの疑問に塔矢は、急用が入ったらしくて、交代したのだと告げる。やっと納得したヒカルに塔矢は残念そうに応じた。
「……そうか。先約なら仕方ないね」
『車だと二人っきりになれるのに』
本当は無理を言って交替してもらったのだ。出来るならば、二人乗りの車で一緒に行きたかったのだが、急には無理だろう。
それに同じ門下の人間が居るなら仕方が無い。
残念に思うのと同時に少し安堵もしていた。
『二人っきりになる勇気が無い』
こうして碁を打つかぎりでは共通の話題もある。だけど二人きりになった場合何を話せば良いのか見当もつかない。
そんな塔矢の戸惑いを一蹴するようにヒカルが誘いの言葉を紡いだ。
「塔矢も一緒に行く?」
「そう、だね。君達さえ良ければ」
塔矢の脳裏で、和谷というのはこの間進藤を抱き締めていた奴だと認識していた。一緒に行くという事は自分が邪魔者だという可能性もある。
それでも進藤の近くに居る機会には違いない。利用すべきはとことん利用したかった。
* * * *
『多分、和谷嫌がるんだろうなぁ』
自分の意外な発言に今更ながら後悔する。
森下門下としては当然の反応を予想出来たはずなのに安請け合いをしてしまったからだ。
しかし後悔はしたけれど塔矢と一緒に居たいという気持ちは本当だった。
そして、案の定和谷の無言の抗議にも耐えて、一泊二日の仕事をこなす。
年が近いとは言え、和谷と塔矢は水と油のようなものだったとヒカルは疲れた思考で判断をくだした。
そして、仕事の中でも暇を見付けては碁を打とうと誘う塔矢。
そんな塔矢に非はない。
ただ、碁の事に真剣なだけだと思う。
自分と打ちたいという彼は、佐為を求め、神の一手を追求しているだけ。
『もし俺から、碁を奪ったら何も残らないんじゃないか? 塔矢は俺なんか必要じゃなくなるのか?』
そう考えるに至ってヒカルは、塔矢が碁を通じてしか自分を見ていないのではないかと思い始めていた。
事実は、塔矢が碁を通じてしかヒカルと関われないと思っていただけなのだが、ヒカルはその心を汲み取れなかったのだ。
ヒカルは自分の心に塔矢が占める割合が増えれば増えるほど、塔矢の存在を持て余し疎ましく感じてしまう。
塔矢が自分を誘うのは決まって碁を打つときだけだし、その笑みも『碁を打つ自分』にしか向けられないのだ。
* * * *
季節は春から夏へと移り変り、色々な手合いでスケジュールが詰まってくる頃。 その日長くなってしまった手合いがやっと終わって、エレベーターから降りたヒカルの視界に、塔矢の姿が映し出された。
それと同時にヒカルの胸が痛みを訴え始める。
塔矢のその姿はヒカルへ与える影響は多大すぎた。
会えて嬉しいはずなのに、心に湧いた疑問と蟠りがヒカルを頑なにさせる。
ヒカルに気が付いた塔矢が、いつものように笑みを称えて近付いてくる。
そんな塔矢にヒカルの口から出た言葉は冷たかった。
「今日、お前の手合いじゃないだろ。なんで、行く先々にお前がついてくんの?」
刺のある言葉に塔矢の足が止まる。
「だって一緒に碁を打ちたくても、君は留守がちだし、折り返して電話もくれないじゃないか」
困惑したような塔矢。
近頃、塔矢のメールにも返信せず、携帯に着信があっても無視していたヒカルに痺れをきらした様子だった。
「俺も色々付き合いってものあるし、お前とばかり関わってられないんだよ」
本心ではない。
ただ、何を話していても碁ばかりだから、それが腹立たしくなったのだ。
『俺は、塔矢に何を求めているんだろう』
塔矢が自分の碁しか見ていないのがそんなに不満なのか。
今まで佐為に向いていた塔矢をやっと自分へと向けただけでは満足しないというのか。
『碁以外の繋がりはないから俺達の関係は所詮ここまでが限界なのか?』
本当は素直になりたいのに、碁以外を求める事は出来ない。例え素直になったとしても男同士だから迷惑だ。
碁しか見てもらえないなら塔矢と必要以上に関わり合いたくない。
もしかして……という淡い期待を抱くのも辛いから……。
『俺は碁打ちとしての塔矢とそして恋愛対象としての、つまり恋人としての塔矢を求めているんだ』
その傲慢さにヒカルは気が付き、逃げるように塔矢と棋院を後にした。
そして季節は夏から秋へと移り変わろうとしていた。
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