魚眼レンズの世界 後編



 そうだ……。これはまるでデートのようだ。
 自分より頭一つは背の低い刹那が大きな水槽の前でじっと泳ぐ魚を見つめている。そんな背中を見ながらロックオンはこれをデートのようだと漠然と考えていた。
 自然と緩む頬。他人から見ればまるで共通点なんて見られないだろう。
 実際、共通点など数少ない。
 セックスはするが互いを解り合うための時間は皆無に近くて、おまけにマイスターとして秘匿義務があるから踏み入った話はしたことがなかった。
 真横に並び刹那の横顔を盗み見る。
「もう俺は覚えていない」
 ポツリと溢した言葉をロックオンはそんなものかと安易に受け止める。
 おそらく刹那も小さい頃、水族館へは両親とでも行ったのだろう。
 覚えてないというのは、どこの水族館でどんな魚を見てどんな会話をしたかといったような詳細を覚えていないと言いたかったに違いない。
 ロックオン自身、家族で水族館や遊園地に行きはしたが事細かに覚えているわけではなかったから刹那の言葉も同じように受け止めていた。
「今度また来ような」
 こんなに夢中になるならまた来ても良い。決して嬉しそうな顔をしているわけではなかったが、それでも刹那が喜んでいると最近は僅かな感情の起伏が解ってきた。
 不思議系とまでもいかないにしても癖のある恋人だ。無口で無表情。なのに垣間見せる表情がたまらない。
 明日もオフだ。今夜はたっぷり楽しんでやろう。
 身体の相性はとても良かったからその他は深く考えないでいた。


 真夜中になって。セックスのあと刹那はポツリと溢す。
「いつか俺はメスになって卵を生むかもしれない」
 真顔の刹那にこちらが戸惑う。
「いや、またなんでそんな事を」
 確かに中出しはしているが刹那が妊娠なんて無理な話で、おまけに卵だなんて天地がひっくり返っても無理がある。
 まさか刹那が子供を生める女に嫉妬か? なら嬉しいが刹那はそんな可愛いたまじゃない。
「今日水族館で性転換する魚がいると…」
 あぁなるほど。そんな種類があると、今日の水族館で展示水槽があったかもしれない。
「だからって人間が性転換して子供まで生めるはずがないだろうよ」
 まったく変な所で常識に欠けている。一瞬嬉しくなったのが馬鹿馬鹿しい。
「しかし、俺は…」
 そこで刹那は言葉を止めるとシーツの中に身を沈める。
 止めた言葉にはどんな言葉が続く?
 ロックオンとなら子供を育てていきたいと言いたかったのか? プロポーズだとしたら、難解ではないが意外な事だった。
 勝手な事を言うだけ言ってもう寝てしまっているが、不可思議な事を真顔で言う刹那について考えてみた。
 まず感情の起伏は乏しく、性格は一見クールだ。熱い食べ物とかを嫌がり、基本的には乾いたパンとかフレークとかを好んで食べている。単に好き嫌いかと思っていたが、他の食品も躊躇いながらも食べているから食べられないというものではないのだろう。
 つまり食生活が貧しいのだ。選択肢が少ないのは今までの環境だろう。
 刹那について考えていると頭が煮詰まってきそうだった。



 トレミーに戻ってからもロックオンは刹那について考えていた。
「なんか普通と違うんだよ」
 アレルヤは柔らかな笑みでロックオンの言葉を聞いている。
「俺が普通の幸せとか感じさせてやりたいって、やっぱ傲慢か?」
「それはつまりノロケですよね」
 にこにこと笑っているが、これ以上は聞きませんからとアレルヤから釘を刺されてしまう。確かに他人からはノロケに聞こえるかもしれないがこっちだって本気で悩んでいるのだ。
 やはり本人に真意を確かめねばならないだろう。
 いつまでも身体だけの中途半端な関係であるより腹を据えて刹那という人間と付き合いたくなったのだから。
「なぁ刹那。俺と居て幸せか? 不満とかあるんじゃねーか?」
 そんなロックオンの言葉に刹那は頭を横に振った。
「いや。きっと俺が悪いんだ」
「は?」
 どういう回路が働いたのか。話が見えない。まさか本当はお前なんか好きじゃないとか言うんじゃなかろうか。
 しかし続く刹那の言葉はロックオンの想像を凌駕していたのだ。
「俺は魚だから…」
 だからこの世界に馴染めないんだ。と、続くなんて誰が予想しようか。
「刹那が魚だって?」
 なんて可愛い比喩を使うのだろうかと口元が緩む。
「……笑うな」
 射殺されそうな眼差しに手をあげ降参の意を示す。
「分かった信じるよ」
 奇妙な答えの裏にある真実を…、刹那が何を考えているか知りたかった。
「で、魚だった刹那はどうして人間になったんだ?」
「覚えていない」
 視線を下に落とす刹那。なるほど、水族館での覚えていないは自分が魚だった頃の記憶なのだろう。だからあれだけ熱心に魚を見ていたのだとしたらなんと空しいことか。
「お前さんの持つ魚の目で見る世界は随分歪んでいるんだろうな」
 魚眼レンズという単語を思い出す。
 魚が見た水面は円球を見るように歪んでいるらしい。魚の目がそうなっているからかは知らないがきっと世界が歪んで見えているのだろう。
「俺は魚だからアンタに抱かれると熱くて死んでしまいそうになる」
 苦しそうに胸元を掴む刹那。
 なんだよ、それ。セックスしてるんだから熱くて当たり前だろう?
「刹那の方が熱いんだよ!蕩けそうなぐらい柔らかくて熱い身体を持ってるじゃないか!」
 必死に説得を試みればほんの少し刹那の頬が赤く染まる。それこそが生きている証であるのに。
「なぁ、現実を見ろ。魚が人間になる訳がない。おとぎ話なんだ」
 昔の童話を刹那が知っているかは判らない。だが普通に育った子供が知らないはずのない童話。
 しかし刹那は頭を振り否定する。


「…では、あれは幻か?」
 瞼を閉じれば思い出すのだ。
 幼い頃の虐待。クルジスが滅び、施設に入れられていた頃。
 大人の手には棒。銃もナイフも無い子供はただ打たれるだけだ。目つきが気に入らないとか色々な勝手な理由。
 毎日のように殴られ、虐げられ、幼いながらにもどうしてか考えて。
『アンタの目は魚のようだよ!』
 罵倒される言葉に気付かされる。
 あぁそうか。
 自分は魚だから、この世界に馴染めないんだ。魚だから殴られても仕方がないのだと。
 世界が歪んでいるのも、魚の目で見れば仕方のない事なのだ。
 ずっとそう考えてきた。
 けれど……。
「ロックオンの言う通り俺が人間なのだとしたら、どうして非人道的な事が許されたんだ?」
 きっと人間の姿になるまで魚だった自分は人間の姿を模してもやはり魚でしかなく、人間と同じ扱いを受けるなどとはおこがましいことなのだ。そう思い込んできた。
 なのにロックオンは魚が人間になるはずはないときっぱり否定してみせたのだ。


 刹那の真っ直ぐな瞳。そこに濁りはない。
 ふっと笑うように目を細めた顔が泣きそうにも見えた。
 そうやって自虐的に笑うなんて……。
 胸の奥からじわじわと沸き上がる感情。
 この可哀想な子供を幸せにしてやりたい。
 美味しいものを食べ、安全で寒さに震える事もなく、お前は大切にされてるんだって実感できる世界で慈しんでやりたい。


「ロックオン、お前が泣く事か?」
 目の前の大人が突然泣き出した事に刹那が呆れたように肩をすくめる。
「魚は涙なんか流さないだろう? だから代わりに俺が泣いてやってるんだよ」
 それでも真っ直ぐに立つ刹那が愛しくてロックオンは息が止まりそうな程の強さでもって刹那を抱き締める。
「なぁ、まだ世界は歪んでいるか?」
 人間の目で見つめてみてもこの世界は歪んでいる。
「あぁ。しかし温かい」
 ロックオンの背に腕を回せばさらにきつく抱き締められ刹那は目を閉じた。




 魚だと思い込もうとしていたのだと優しい男が言うから。そうかもしれないと言葉を濁す。
 けれど歪んだ世界が見えて、お前は魚だと告げていた。



 かつて尾びれだった足を男は優しく撫でるから、このままお前のために人間でいるけれど。
 この世界が歪んでいるかぎり魚は息苦しさを覚えるに違いないのだ。







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