忘却
目が覚めると白い壁の病院の一室で、俺は15年ほどの記憶を失っていた。 「いやぁ、ライルさん。大変な目に合いましたね」 医者の言葉にどうもと会釈を返す。 そうか…。俺の名はライルだ。どこかしっくりとこないと感じるのは記憶が不安定なせいか。 思い出せる記憶はテロで家族を失った14の時のものまでだ。今、西暦は2312年というから抜けた記憶は大きい。 医者が言うには俺がこの病院にきたのは4年前で、何の事故か医者も詳しくは知らされなかったがかなり瀕死状態であったらしい。 記憶の欠落の原因は事故の影響が少なからずあるだろうと推測されるとは医者の言葉だ。物理的な事も勿論のことながら精神的な事もあろうと医者が説明する。 必死に思い出そうとしても空白の15年は何も見えてこない。 4年の闘病を差し引いても約10年もある空白の期間に自分がどこに居たのかすら思い出せはしなかった。俺はいったい何をしていた? 診察も身体の問診と検査が主で、脳の事までは範疇外なのか記憶がない事へのフォローは無きに等しいものだった。いや治療も一通り受けたのだが変化は皆無だったのである。 ここは軍関係の研究施設を併設しているため、軍から治療を命じられていたと医者が言うから、俺は少なくとも軍の関係者なんだろう。 ちなみに俺が意識を取り戻した時のモーニングコールは女の悲鳴だった。 死体が起きたと叫んだのは新人の看護師だったらしく、俺が眠りの森の王子とは知らなかったらしい。(長く勤務する看護師達からはそう呼ばれていたと後から聞かされた) 軍からの指示で4年前から最新の医療で治療を受け、その結果身体は完治してもなかなか意識が戻らないまま月日ばかりが経過した。 そうこうしているうちに、軍の再編により管理していた部署が廃止され、目覚めるのがあと1ヶ月遅ければ安楽死も視野にあったらしい。 2年ほどは単に寝ているだけで、脳も活発で情報を取り入れている様子があったからいつかは目覚めるだろうとされていたが、結局何が誘引して目覚めたかは判らなかった。 眠っている間、音声のみだが色々な情報を流されていたために、少し記憶に残っているものもあった。 リハビリ中、トレーニングルームで流れている音楽も聞き覚えがあり、周囲に問えば一年前に大ヒットした曲だったらしい。 そんな寝ていた時の記憶はあるのに、どうしてあのテロから生死の境をさ迷う羽目になった事故までの記憶がないのだろう。 未成年から一気に大人になってしまった気分だったが、車の操作や酒や煙草の味は覚えていて、それなりに生活していたとわかる。 鍛えてあったらしい身体は少しのリハビリとトレーニングで結果を出して、おかげさまで俺は病院から早々に追い出されてしまった。 軍の関係者がお迎えに来てくれて…なんて想像もしたが部署がなくなったというのは本当だったらしい。 てっきり軍の中心で重要人物だったから無意味かもしれない治療を続けられたと思っていたがどうやら違ったようだ。期待もむなしく俺はたった一人で放り出された。 失われた記憶は闇の中だ。思い出すのはもう諦めた。深層心理が拒んでいるのなら仕方ない。 それより退院を余儀なくされた俺は、仲良くなった看護師が紹介してくれたパブで働く事になった。故郷のアイルランドだったからが理由であり、決してその看護師と良い仲になったからではない。 酒場の仕事も単なる雑用係りだったので仕事は簡単だった。 だが15年近く記憶がなければ話題に困る事もあった。何しろ俺には思春期以降一番遊び盛りで血の気の多い時期の記憶がないのだから。 初めての恋人とかを忘れているのだろうから勿体無い話だ。 それ以上に、もしかしたら結婚なんかしていたのかもしれない。もし家族がいたのだとしたら今どうしているだろうか。きっと心配している。しかし連絡をとろうにも記憶がないのだからどうしようもない。 思い出す家族といえば、父と母。妹のエイミーに兄のニール。俺は真面目な兄を尊敬していた。はっきり言って運動はからっきしだったが、頭が良くて紳士だった。 双子なのに、という陰口など気にならないくらい仲が良かった俺達。足して2で割れば?なんてジョークがぴったりなくらい感情的な俺とは違い、ニールは落ち着いて理論的だった。 あの日、試験勉強があると遊びに出掛けなかったニール。父は午後から帰宅していて、風邪気味のエイミーは遊びに出れず母は煮込み料理を作ると言っていた。 いつもと変わらない日常があるはずだったのに、夕方帰宅した俺が見たものは無残にも倒壊したアパート。 そして次々と運びだされる死体。その辺りから記憶は曖昧で、気がつけば15年ほどの記憶がない。 どうして家族がテロなんかに巻き込まれたのか。しかしテロが憎いと思っても俺には何の力もない。せいぜい反戦運動を唱えるだけだ。 一人生き残った俺はあれから何をしていたのだろう。 聞けば、宇宙で回収されたという。それもかなりの重症で。体内のナノマシンがかなり優れていたために辛うじて再生治療が可能だったらしい。 軍が躍起になって起こそうとしていたがその部署も無くなって、また俺は宙に浮いている。 軍人だったのかもしれないが現在のデータには籍はない。もし敵側だったのならこんな最新の医療は勿体無いぐらいで、もし敵方なのだとしたらよほど重要なデータを保持していたのだろう。 生体バンクの遺伝子情報にはライル・ディランディとあったから、かろうじて人物が特定されたぐらいで、他は何の公的機関のデータもなかった。 普通なら有り得ないが、15年前を区切りに俺のデータは何かの手違いで消されていて、おまけに墓には俺が死んだと墓碑銘が刻まれていたのである。 代わりにニールの名前が刻まれていなくて、俺は一言ゴメンとだけ謝った。きっと15年前の俺はかなり錯乱していて手続きとやらを誰かに任せたのだろう。 過去の俺はいったい何をしていたのか。そしてこれから何が出来るのか。 目が覚めたのは何かすべき事があったからだ。きっと。 開店前の店の掃除をしながら、ニュースを聞き流す。ガンダムという単語がキャスターの口から何度となく語られている。聞いた事がある単語だと思ったがきっと眠っている間に聞いたのだろう。 失った記憶も気になったが、それよりもこれからを生活することで手一杯で空白の記憶の事などいつしか埋没していく。 いつか思い出すかもしれないし、一生思い出さないかもしれない。そんな失ってしまった記憶より今をどうするかが大事だった。そう思い込もうとしていた。 最近になって開店直後のまだ明るい時間に現れる客が気になっていた。 ギリギリ20才に見えなくもない、中東系の目付きの鋭い青年だ。こちらを見ているが、悪意は感じられないので無視している。 同性愛者の自覚はないがどうも気になって仕方が無かった。 あんな恋人をもって、どこかのんびりとじゃがいもでも作って暮らしてみるのも良い。 どうしようか、『俺のおごりだ』なんて声をかければ下心が丸見えか? 仕方ない。恋の駆け引きなんてした事がないのだから。多分。 勇気を出せ、ライル・ディランディ!! 一歩を踏み出さなければ前には進まないのだから。 「最近、よく来ますね。よければ俺のおごりで一杯いかがです?」 赤い目をした(実際は赤みの強いプラウンかもしれない)青年は予想より低い声で呟く。 「……ミルク」 やっぱり慣れないことはするもんじゃない。パブでミルクなんて、変わった客だ。あぁでもどうして懐かしい気分になるのだろう。どうして青年の頬を涙が伝うのだろう。 誰が知りえよう。 俺が二度も記憶を失っただなんて。 誰が信じようか。 俺が死んだ兄のニールとなる事を選択したうえに記憶まで書き換えていただなんて。 誰が信じようか。 俺がかつてニールとして銃を握り、家族の無念を晴らすために戦いに身を投じていたなんて。 俺は知らない。 テロで兄のニールを失って、生き残った俺は記憶を書き換えた。自分がニールとして生きる事で家族は生きていると思いたかった。 優しい兄、生きるべき兄を。名前だけでも生かしたかった。 完全に記憶の上書きは出来ていた。そして俺はニール・ディランディとして生きていた。 しかし4年前の戦いで瀕死の重傷を負ったために記憶は失うべきでないところを失った。 俺はライル・ディランディに戻ったのだ。 けれど、俺はすべてを知らない。 最後のあがきです |